嫁いでから一度も触れてこなかった竜人皇帝が、急に溺愛してくる理由
* * * * *
パタン、と目の前で扉が閉まる。
足音が遠ざかっていくのを聞くと、よろけ、扉に寄りかかった。ずっと強張っていた体から力が抜けた。扉に寄りかかったままズルズルと座り込む。手が震えている。
……何もなくてよかった、なんて……。
妻として最低限の役目は果たさなければならないだろう。
だが、皇帝陛下は無理にわたしを抱こうとはしなかった。
それどころか『無理強いはしない』と言い、今更だけれど名乗り合い、少しだけ会話を交わした。わたしが名乗った時、アイシャ、と確かに名前を呼ばれた。
そのことにドキリと心臓が脈打った。
王国ではわたしの名前を呼んでくれるのは乳母のマーシアだけだったから、異性に名前を呼ばれたのは初めてだった。
国王も王太子も使用人達もわたしのことは『第一王女』と呼ぶ。異母弟妹もわたしのことを『役立たずなお姉様』『出来損ないの姉上』と呼んでいた。
……マーシアがいなければ、自分の名前すら知らずにいたかもしれない。
それくらい、わたしの名前を呼ぶ人はいなかった。
それなのに、皇帝陛下はわたしの名前を呼んだ。
微笑みを浮かべ、低い声が優しく『アイシャ』と呼ぶから、わたしは一瞬呼吸が出来なくなってしまった。皇帝陛下はわたしに『期待していない』と言った。目立たず、静かに、ひっそりと過ごしていればいい。皇帝陛下を不快にさせないよう、従うだけ。
そう、分かっているのに……。
何故、もう一度名前を呼ばれたいと思うのだろう。
……きっと、マーシアがいないからだわ。
王国から来た侍女のシャロンはわたしの名前を呼ばないから。
帝国でもどうせ誰からも名前は呼ばれない。
そう考えていたから、驚いただけだ。
目を閉じれば皇帝陛下の声が頭の中で響く。
『アイシャ』
思わず耳を塞ぐと、掌からドクドクと脈打つ心臓の鼓動が伝わってくる。
……期待してはダメよ、アイシャ。
わたしは妻という名の人質にすぎないのだから。
翌朝、侍女のシャロンから叱責を受けた。
「昨夜、皇帝陛下はすぐお戻りになったそうね? まさか陛下の機嫌を損ねたの? 全く、グズだとは分かっていたけれど、本当に役立たずなんだから!」
イライラした様子の侍女に何とか返事をする。
「いえ、陛下は話をしに来ただけだったようで……」
「それなら昼間に来るでしょう? 夜に来たというのはそういうことよ! それなのに妻がこんなだから気分ではなくなってしまったんだわ! 母親のように体を使って引き留めればいいじゃない!!」
侍女に突き飛ばされて床に転ぶ。
見上げれば、シャロンが冷たくわたしを見下ろしていた。
「このことは王国に報告するわ。あなたの大切な乳母はどうなるかしら?」
侍女の言葉に体が硬直する。
「ご、ごめんなさい、それだけは……!」
「失敗したあなたが悪いのよ。それが嫌なら陛下に気に入られるようになさい!」
「……はい……」
立ち上がり、ドレスの汚れを叩いて落とす。
そうしていると扉が叩かれた。シャロンが応対し、そして不満そうな顔で戻ってくる。
「どうやら皇帝陛下の機嫌は損ねなかったようね」
先ほどの来客は陛下の使いだったそうで、『城内ならば好きに過ごせばいい』とどこでも立ち入れるように手配したことを告げに来たらしい。
「でも、私がいない時は誰とも会わないように。部屋の外を勝手に出歩いたら、その度に鞭打ちの刑よ」
そう言って侍女は部屋から出ていった。
鞭打ちと聞いて体が震える。シャロンの持つ鞭は、どんなに打っても傷は付かないが痛みはある特別製の鞭で、軽く打たれただけでも酷く痛む。
……あれだけは何度受けても慣れない……。
結局、部屋に引きこもっているしかなかった。
パタン、と目の前で扉が閉まる。
足音が遠ざかっていくのを聞くと、よろけ、扉に寄りかかった。ずっと強張っていた体から力が抜けた。扉に寄りかかったままズルズルと座り込む。手が震えている。
……何もなくてよかった、なんて……。
妻として最低限の役目は果たさなければならないだろう。
だが、皇帝陛下は無理にわたしを抱こうとはしなかった。
それどころか『無理強いはしない』と言い、今更だけれど名乗り合い、少しだけ会話を交わした。わたしが名乗った時、アイシャ、と確かに名前を呼ばれた。
そのことにドキリと心臓が脈打った。
王国ではわたしの名前を呼んでくれるのは乳母のマーシアだけだったから、異性に名前を呼ばれたのは初めてだった。
国王も王太子も使用人達もわたしのことは『第一王女』と呼ぶ。異母弟妹もわたしのことを『役立たずなお姉様』『出来損ないの姉上』と呼んでいた。
……マーシアがいなければ、自分の名前すら知らずにいたかもしれない。
それくらい、わたしの名前を呼ぶ人はいなかった。
それなのに、皇帝陛下はわたしの名前を呼んだ。
微笑みを浮かべ、低い声が優しく『アイシャ』と呼ぶから、わたしは一瞬呼吸が出来なくなってしまった。皇帝陛下はわたしに『期待していない』と言った。目立たず、静かに、ひっそりと過ごしていればいい。皇帝陛下を不快にさせないよう、従うだけ。
そう、分かっているのに……。
何故、もう一度名前を呼ばれたいと思うのだろう。
……きっと、マーシアがいないからだわ。
王国から来た侍女のシャロンはわたしの名前を呼ばないから。
帝国でもどうせ誰からも名前は呼ばれない。
そう考えていたから、驚いただけだ。
目を閉じれば皇帝陛下の声が頭の中で響く。
『アイシャ』
思わず耳を塞ぐと、掌からドクドクと脈打つ心臓の鼓動が伝わってくる。
……期待してはダメよ、アイシャ。
わたしは妻という名の人質にすぎないのだから。
翌朝、侍女のシャロンから叱責を受けた。
「昨夜、皇帝陛下はすぐお戻りになったそうね? まさか陛下の機嫌を損ねたの? 全く、グズだとは分かっていたけれど、本当に役立たずなんだから!」
イライラした様子の侍女に何とか返事をする。
「いえ、陛下は話をしに来ただけだったようで……」
「それなら昼間に来るでしょう? 夜に来たというのはそういうことよ! それなのに妻がこんなだから気分ではなくなってしまったんだわ! 母親のように体を使って引き留めればいいじゃない!!」
侍女に突き飛ばされて床に転ぶ。
見上げれば、シャロンが冷たくわたしを見下ろしていた。
「このことは王国に報告するわ。あなたの大切な乳母はどうなるかしら?」
侍女の言葉に体が硬直する。
「ご、ごめんなさい、それだけは……!」
「失敗したあなたが悪いのよ。それが嫌なら陛下に気に入られるようになさい!」
「……はい……」
立ち上がり、ドレスの汚れを叩いて落とす。
そうしていると扉が叩かれた。シャロンが応対し、そして不満そうな顔で戻ってくる。
「どうやら皇帝陛下の機嫌は損ねなかったようね」
先ほどの来客は陛下の使いだったそうで、『城内ならば好きに過ごせばいい』とどこでも立ち入れるように手配したことを告げに来たらしい。
「でも、私がいない時は誰とも会わないように。部屋の外を勝手に出歩いたら、その度に鞭打ちの刑よ」
そう言って侍女は部屋から出ていった。
鞭打ちと聞いて体が震える。シャロンの持つ鞭は、どんなに打っても傷は付かないが痛みはある特別製の鞭で、軽く打たれただけでも酷く痛む。
……あれだけは何度受けても慣れない……。
結局、部屋に引きこもっているしかなかった。