ブルー・ベリー・シガレット
一瞬だけ不思議そうに瞬きをした彼女は、動じない俺にいよいよ諦めて天を仰いだ。
「シーナです」
それから、降参するように短く告げられた。処理落ちした脳のおかげで理解が遅れてしまい、二秒経ってから「しいな」と舌の上で転がした。
シーナ。本名なのかさえ分からないけれど、簡単に口にできないくらい尊い響きだと感じた。しいな。どんな字を書くんだろう、下の名前だったら平仮名の可能性もある。
ようやく得られた彼女の情報に夢心地の俺だ。シーナ、良い名前だな。発音しやすいからたくさん呼びたい。
「あと、私のほうが年下なので敬語やめてください」
満足している俺を置き去りにエレベーターへと乗り込みながら、淡々と彼女が言い捨てる。慌てて俺も追いかけた。口調は相変わらずだけど、距離が近づいているのは自惚れだけではないはずだ。
「シーナちゃんって呼んでいい?」
「どうぞ、お好きに」
「俺のことは藤って呼んでね」
「ふじさん?」
「それだと山みたいだから、藤でいいよ」
『三階でございます』
機械音声が和やかに運ばれていた会話を邪魔しやがったので、俺はムッとしてスピーカーを睨みつけた。
名残惜しいのはこちらのみなので、当然ながら彼女はあっさりとエレベーターから降りようとする。その背中を引き留める権利、一体いくらで買えるわけ?
エレベーターから降りていくシーナちゃんが扉が閉じる間際、こちらを振り返ってにやりと笑った。
「じゃあ、機会があれば藤くんって呼びますね」
俺は扉が閉まると同時に頭を抱え、言葉にもできない高揚感を自分の黒髪をぐしゃりと掻き乱すことでどうにか発散しようとした。
おれ、ぜったいシーナちゃんと結婚する。初恋にときめく幼児みたいな決意を固め、狭い箱の中にあるだけの空気で肺を満たした。切実に煙草が吸いたい。