満天の君と、純白のヒメゴトを。
癖のない黒髪から覗く、深海を彷彿とさせる暗緑色の滲んだ瞳。
それなのに高らかに晴れた空のように澄み切った潤い。
そして、儚げな瞬きに私はいとも簡単に吸い込まれていた。格好いい、じゃない。

「綺麗…」

時間が止まった気がした。いや、本当に止まっていたのかもしれない。それほどにたった一瞬の出来事が鮮烈すぎた。

僅かに見開かれた目が再度人込みにかき消され見えなくなっても、私はしばらく放心していた。

あの冷ややかなのに柔らかい眼差しが頭から離れなかった。

「惚れた?」
「え」
「樹々瀬灯に。まさしく学園物のヒーローじゃん」

冗談めいた言葉に私ははっと我に返る。

「えー?いやいやまさか」

私は急に照れ臭くなって桃に背を向ける。教室のドアに向かって歩みを進めながら、小さく唇の端を持ち上げる。

危ない、うっかり呑まれかけた。そうだったそうだった。

「所詮ただのイケメンだもんね」

自嘲的に笑う背に、「こじらせてんなー…」という呟きが重なる。

そのまま国語科準備室を訪れた私は、件の書類一式を預かる。各クラスの文化委員に配布しておいてほしいそうで、残り少ない時間を駆使して教室を順に巡回する。

その道中、やっぱりあの瞳が不思議と脳内をちらつく。私は窓ガラスに反射した自分の姿を横目に映す。

華やかさに欠ける出で立ち、特徴が乏しい顔立ち。器量も容量も、全スペックが凡人の中の凡人。

仮に惚れたとしても私なんかが相手にされるわけがない。あんな、生まれた時から白馬も玉座も持ち合わせているような人に。

身分差恋愛?そんなの創作の中だけ。

だからやっぱり、’’ただのイケメン’’。

これまでもこれからも未来永劫関わりのない物。’’ただ’’遠くから眺めるだけ、’’ただ’’偶然同じ学校にいるだけ。これ以上交わることは絶対にない。恋するなんてもってのほか。断言できる。

きっと、目が合ったのが史上最大の接点。

その事実すら身に余る。

どこか浮ついた雑念を抹消しようと目の前の階段を駆け上がる私は、気付けなかった。前方から人が降りてきているということに。

あ、と思ったときには、顔面に大きな影が落ちていた。

とっさに躱すことも出来ず面した胸に顔からダイブする…かと思えば、急な衝撃に耐えきれず足が段差から滑り落ちる。

このままだと背中から踊り場に叩きつけられる…!もう不可抗力だと諦めた私は力一杯瞼を閉じる。

「危ない!」

しかし、背中に伝わってきたのは力強い感触だった。

恐る恐る瞼を開けると、ありえないほどに美しいご尊顔が目と鼻の先にあった。

それはそれはもう、毛穴の一つ一つが見えてしまいそうなほどに。まあこんなにきめ細やかな肌に毛穴なんか存在するわけがないんだけど…って、

え?

数周回って冷静になっていた私はあまりの非現実的な状況に目眩を覚える。

なんで樹々瀬くんが!?というかこの体勢…。

ようやく、己があの樹々瀬くんの腕の中にいるということを自覚する。

私が激突した相手はまさかの樹々瀬くんで、その上階段から落下していく私を見事に抱き留めて救出してくれた、と…。うん、出来のいい幻に違いない。そうであって。

「…間に合った」

品の良すぎる声に、私は視線を上げる。同時に、安堵の息を吐く樹々瀬くんが顔を下に向ける。近距離で視線が交わる。

「うわああ!?」
「ごめんなさいぃぃ」

およそ誰も聞いたことのない樹々瀬くんの絶叫が薄暗い階段にこだまする。これ現実だ。

唐突に申し訳なさが湧き上がってきた私は踊り場まで後退り、勢い余って尻餅をつく。色々と人通りのない場所で助かった。

私が醜態をさらす一方で、樹々瀬くんはハッと目が覚めたように、評判の涼し気な表情に戻る。

「驚かせてしまいすみません、大丈夫ですか?」

そのまま真っ直ぐ伸びた背筋で階段を下ると、私の前で片膝を着く。自然な所作で左手を差し出す姿は、恋愛漫画のヒーローのようで…

私は吸いこまれるようにその手を取る。

あたたかい。

氷細工のように繊細で指先までひんやり冷たい手。なのに、淑やかな温もりが掌を優しく包み込む。
たおやかな力にエスコートされて立ち上がった私はやっと落ち着きを取り戻す。

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