父性本能を刺激したようで最上級の愛で院長に守られています
「いつものように仕事の話をしようか?」
「はい!」
「まるで病棟にいるように元気な声だね。仕事の話になって、内心ホッとした?」

 そう言ってにっこり微笑むと羽吹副院長が話題をひと区切りした。

「研修医時代は分からないことは、なんでも伊乃里くん曰く自分ノートにメモしていたよね。ペンでカラフルだった」

「懐かしいですね。あのころ自分ノートはフル稼働でした」

 仕事の話や想い出話になると、とたんに私の口が滑らかになる。

「獣医師の使命は日々勉強だけど、伊乃里くんも昔から勉強熱心だよね」

「センターでは、みなさんから教えていただくことも多々ありましたが、自分から進んで学んでいかないといけないと思いました」

「僕らも指導に手が回らなかったりしたから、大変な想いをさせたね」
 偉ぶることなく申し訳なさげな表情さえも品がある。

「いいえ。羽吹副院長は研修医指導の他に本を勧めてくださったり、時間があるときは整理した自分ノートもチェックしてくださったり大変感謝してます」

「病棟でも一緒に処置に入って技術を見せてほしいって、言われなくてもいつも柔順に僕に従ってうしろをついていたよね」

「羽吹副院長についていれば間違いないですから」
「さすが伊乃里くんだね、僕の目に狂いはなかった。素直で忍耐強くて可愛げがある。思った通りの人だよ、きみは」

 もともと良い姿勢がますます良くなって満足そうに口角を上げて、私を見つめる。

「入職したときから素朴で穏やかだったね。だから、どうしても伊乃里くんを僕の病棟(そば)においておきたかった」
 
 入職したころ、右も左も分からない私に一から教えてくれた先生たちや獣看たちの顔が頭に浮かぶ。

「入職したとたん、どうして周りの方々が病棟に行け病棟に行けって、おっしゃってくださったのか分かります」

「外来よりは鍛えられるからね」
 
 軽く口角を上げて微笑んだ羽吹副院長の笑顔が寂しそうになり真顔に変わった。
「伊乃里くんがうちのセンターを辞めたのは痛手だよ。正直、まいった」 

「大げさです」
「真面目に思っているよ、理由も教えてくれないし」
「夢があるんです」
「良かったら聞かせてくれる?」
「人に話すと実現しないって言いますよね」
「水くさいな」

 冗談っぽく余裕のある微笑みを見せるような羽吹副院長。 
 今までお世話になった恩人だけれど、夢は語れない申し訳ない。

「うん、そっか。夢が叶うといいね、応援しているよ」
「ありがとうございます。まさしく私の進みたい道なんです」

「努力家の伊乃里くんなら掴む夢だね。ところで、名垣(ながき)高度動物医療センターはどう?」

「毎日みっちり絞られ鍛えられてます。あの病棟での経験がとても役に立ってます」
「キツそうだね。でもお役に立てて良かった」

 キツそうもなにも名垣は獣医師やアニテク(動物看護師)を人間扱いしない。

 その中での私のモチベーションは、日々動物に対する使命感だけで乗り切ること。

「内科は急変が少ないから、ゆったり丁寧に患畜と向き合える。おっとり屋さんの伊乃里くんにはぴったりだったね」

「もし、新人研修医時代に羽吹動物医療センターで外科や救急に回されていたら」
 考えるだけで背中はひんやりと冷たくなるようだ。
< 2 / 75 >

この作品をシェア

pagetop