離婚まで30日、冷徹御曹司は昂る愛を解き放つ
 これに果菜は驚いた。まさか果菜の顔を覚えているとは思わなかったのである。

「は、はい。MIKASAの社員の夏原と申します。芦沢専務が弊社に来社された際に案内をさせていただきました。え、覚えてくださっていて……?」

 あまりにそのことに驚きすぎて、自己紹介しながらもつい素直な感想が漏れてしまう。

 信じられないというように目を瞬いていると、遼はあっさりと頷いた。

「ああ。少し印象深かったから」

「え?」

(うそ。私、もしかして気付かない内に何かやらかしてた?)

 遼の言葉が不穏な意味に聞こえて、果菜は少し不安になってしまう。一体何をと自分の言動を思い返していると、その思考を遮るように、遼が言葉を続けた。

「君はここで何を? 食事にきた……という訳ではなさそうだけど」

「うえ」

 今一番、聞いて欲しくないことを突っ込まれて、思わず果菜は、カエルの鳴き声のような情けない声を出してしまった。

 それは本当に無意識に出た声で、そんな声が出たことに果菜自身が一番びっくりして、慌てて咳ばらいをして誤魔化す。

(そんなこと聞く⁉ そこは放っておいてほしかった……!)

 できればそんなことを言って回答を拒否したかったが、そうもいかないだろう。何せ相手は自社の取引先の会社の専務、自分はただの平社員だ。圧倒的に立場が違う。

「ええっと……ですね。このホテルで親戚の結婚式があってそこに出席してまして。帰りにちょっとトイレをお借りしようとして……少し間違えてこの階に」

 果菜は不自然に思われない言動を考えて何とか言葉を捻り出した。なかなか苦しい言い訳ではあったが、大筋は間違っていない。

 そして、これで自分から興味を失くしてくれるようにと祈りながら、無理矢理に引き攣った笑いを浮かべた。

(なんで、よりにもよって、こんなタイミングで、こんな普段絶対に会うようなことがない人と会っちゃうかな……!)

 別に、これからも接点がある人物な訳ではない。果菜が秘書課の仕事を手伝っているのは期間限定のことだ。秘書課に人員の補充があれば、もう手伝うことはない。そうなれば、この先顔を合わせることはもうないかもしれない。

 そもそも、住む世界が違う相手だ。

「ふーん……トイレ、ね。なるほど」

 果菜の苦しい言い訳を聞き、どう思ったのかしらないが、遼は無表情にそう呟いた。なぜだかはわからないが、その口調から少しだけ最初の堅苦しさが消えている。

 何かを考えているのか、その切れ長の目を細めると遼はじっと果菜を見た。
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