大河ドラマ・乳房星(たらちねぼし)
【傷だらけのローラ】
(カチャカチャカチャカチャカチャカチャチーン…)
時は、午前10時50分頃であった。
ところ変わって、警察署から左へ2軒先にあるショッパー(ダイエー・今は今治国際ホテルの駐車場になっているのでない)の地下の食料品売り場にて…
私は、購入した品物をレジで精算したあと近くにある台でふくろづめをした。
大きめサイズのレジぶくろに大きめのワンカップ大関4本とサントリー缶ビール500ミリリットル缶一本とトロ(まぐろ)とイカとブリとサワラの刺身《おつくり》を詰めた。
その後、地下一階にあるパン屋へサンドイッチを買いに行った。
(ブロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロ…)
午前11時半頃であった。
私は、警察署前のバス停から産業道路経由で唐子台方面に向かうせとうちバスに乗って旅に出た。
唐子浜の自動車教習所前でバスを降りた私は、頓田川《とんだがわ》の河口付近にある海岸へ歩いて向かった。
(ザザーン、ザザーン、ザザーン…)
時は、正午過ぎであった。
ところ変わって、頓田川《とんだがわ》の河口付近にある海水浴場《ビーチ》にて…
ベンチに座っている私は、海に浮かぶ赤灯台《とうだい》を見つめながらショッパーのパン屋で購入したサンドイッチを食べていた。
私の左側に置かれているソニーのケータイラジオのスピーカーから南海放送ラジオで放送されている『思い出のリズム』が流れていた。
それから20分後であった。
私は、のみかけのサントリー缶ビールをのみながら海を見つめた。
この時、リクエスト曲は西城秀樹さんの歌で『傷だらけのローラ』に変わった。
1926年9月から今までの間、仕事に必要な資格と修士博士号を取得することとイワマツを作るプロジェクトを始めるための準備と勉学だけの日々を過ごした…
…ので、ゆっくりとラジオを聴く時間は全くなかった…
…………
それどころか、楽しい子ども時代は全くなかった…
同い年の子どもたちが希望に満ちあふれた表情で学校を楽しんでいる中で自分だけは大きくズレた生き方をした。
2〜3歳でアメリカ・ハーバード大学〜大学院に入学した…
小学校・中学校・高校は、アメリカ合衆国の12年間の単位はレポート提出のみで取得した…
だから、楽しい子ども時代は全くなかった…
それから55年が経過した今、世の中は大きく変化した…
今の子どもたちは、希望に満ちあふれた暮らしを送っていた。
家に帰れば、温かくむかえてくださる家族がいる…
家族で一緒に同じテーブルで同じごはんを食べる…
1台のテレビで家族が同じ番組を見る…
………
私には、そう言った時間が全くなかった。
私はこの時、1926年初夏…私が2歳6ヶ月の時を思い出した。
あの日、私は事務長さんからより厳しい口調で命令された。
「コリントに厳命を下す!!…おぬしは、1926年9月よりアメリカ合衆国のハーバード大学・大学院へ行け!!」
事務長はんから厳命を受けた私は『行きます。』と答えた。
今の子どもたちが事務長はんから厳命されたらどうなるだろうか…
たぶん、激しく泣いていやがると思う。
だけど、あの時はどんなに激しく泣いていやがっても親の考えが変わることは全くなかった…
子どもの進路も結婚相手も…なにもかも親御《おや》が決めていた時代であった…
…と言うた方がいいと思う。
そう思うと、おととい長野市若穂保科《しんしゅうほしな》であったあの男の子は甘ったれている…と考えたくなる。
『おうちに帰りたい…』と言っている人は、親元から離れて暮らすことには向いてない…
いいえ、親元から離れて暮らすことに向く姿勢がない…
…と言うた方がいいのか…
………………
そんな時であった。
私は、トモン(中国キツリン省)の駅でママと別れたあとマァマとドナ姐《ねえ》はんたちと一緒にシベリア鉄道に乗って旅に出たことを思い出した。
時は、午前10時50分頃であった。
ところ変わって、警察署から左へ2軒先にあるショッパー(ダイエー・今は今治国際ホテルの駐車場になっているのでない)の地下の食料品売り場にて…
私は、購入した品物をレジで精算したあと近くにある台でふくろづめをした。
大きめサイズのレジぶくろに大きめのワンカップ大関4本とサントリー缶ビール500ミリリットル缶一本とトロ(まぐろ)とイカとブリとサワラの刺身《おつくり》を詰めた。
その後、地下一階にあるパン屋へサンドイッチを買いに行った。
(ブロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロ…)
午前11時半頃であった。
私は、警察署前のバス停から産業道路経由で唐子台方面に向かうせとうちバスに乗って旅に出た。
唐子浜の自動車教習所前でバスを降りた私は、頓田川《とんだがわ》の河口付近にある海岸へ歩いて向かった。
(ザザーン、ザザーン、ザザーン…)
時は、正午過ぎであった。
ところ変わって、頓田川《とんだがわ》の河口付近にある海水浴場《ビーチ》にて…
ベンチに座っている私は、海に浮かぶ赤灯台《とうだい》を見つめながらショッパーのパン屋で購入したサンドイッチを食べていた。
私の左側に置かれているソニーのケータイラジオのスピーカーから南海放送ラジオで放送されている『思い出のリズム』が流れていた。
それから20分後であった。
私は、のみかけのサントリー缶ビールをのみながら海を見つめた。
この時、リクエスト曲は西城秀樹さんの歌で『傷だらけのローラ』に変わった。
1926年9月から今までの間、仕事に必要な資格と修士博士号を取得することとイワマツを作るプロジェクトを始めるための準備と勉学だけの日々を過ごした…
…ので、ゆっくりとラジオを聴く時間は全くなかった…
…………
それどころか、楽しい子ども時代は全くなかった…
同い年の子どもたちが希望に満ちあふれた表情で学校を楽しんでいる中で自分だけは大きくズレた生き方をした。
2〜3歳でアメリカ・ハーバード大学〜大学院に入学した…
小学校・中学校・高校は、アメリカ合衆国の12年間の単位はレポート提出のみで取得した…
だから、楽しい子ども時代は全くなかった…
それから55年が経過した今、世の中は大きく変化した…
今の子どもたちは、希望に満ちあふれた暮らしを送っていた。
家に帰れば、温かくむかえてくださる家族がいる…
家族で一緒に同じテーブルで同じごはんを食べる…
1台のテレビで家族が同じ番組を見る…
………
私には、そう言った時間が全くなかった。
私はこの時、1926年初夏…私が2歳6ヶ月の時を思い出した。
あの日、私は事務長さんからより厳しい口調で命令された。
「コリントに厳命を下す!!…おぬしは、1926年9月よりアメリカ合衆国のハーバード大学・大学院へ行け!!」
事務長はんから厳命を受けた私は『行きます。』と答えた。
今の子どもたちが事務長はんから厳命されたらどうなるだろうか…
たぶん、激しく泣いていやがると思う。
だけど、あの時はどんなに激しく泣いていやがっても親の考えが変わることは全くなかった…
子どもの進路も結婚相手も…なにもかも親御《おや》が決めていた時代であった…
…と言うた方がいいと思う。
そう思うと、おととい長野市若穂保科《しんしゅうほしな》であったあの男の子は甘ったれている…と考えたくなる。
『おうちに帰りたい…』と言っている人は、親元から離れて暮らすことには向いてない…
いいえ、親元から離れて暮らすことに向く姿勢がない…
…と言うた方がいいのか…
………………
そんな時であった。
私は、トモン(中国キツリン省)の駅でママと別れたあとマァマとドナ姐《ねえ》はんたちと一緒にシベリア鉄道に乗って旅に出たことを思い出した。