桜花彩麗伝
◇
「お食事です、蕭淑妃さま」
日に二度、小窓から配給される侘しい膳を受け取るべく帆珠は立ち上がった。
身体が重く、ひどい倦怠感に目眩を覚える。
あばら家のように崩れかけた冷宮は寒々しく、薄汚い上にあらゆる自由がなかった。
床を這う蜘蛛や鼠を何度目にしたことであろう。黴くさく、埃くさい。
肌も髪も艶を失い、割れた唇から血が滲む。冷えた指先を擦り合わせてもあたたまることは決してなかった。
帆珠に仕える千洛も同じ目に遭っていることであろう。
この冷宮の別部屋に軟禁されているはずで、時折すすり泣くような声が聞こえてくる。しかし、言葉を交わすことは禁じられていた。
蕭家の娘たる矜恃に懸け、冷宮へ入ってからは、帆珠はただの一度も涙を流さなかった。それどころか、ひとことも発することなく毅然と過ごしている。
表情を変えないまま、差し入れられた膳に手を触れたとき、ぐっと抗うような手応えを感じた。
配給係の女官が力を込め、受け渡しを阻んだようだ。
「……?」
「……淑妃さま。冷宮での暮らしはいかがですか」
帆珠は戸惑ったように瞠目し、眉を寄せる。
当然ながら配給を担当する者との会話も禁じられており、これまでここで話したことなどなかった。
彼女は何者なのだろう。
気にかけるようなことを口にする割に、案じているような声色ではない。
「あんた、誰……?」
久方ぶりに発した声は掠れてしまったが、女官は想定内の問いであるとでも言いたげな反応であった。
小窓の位置に合わせて屈み、格子越しに顔を合わせる。
「お初にお目にかかります。鳳貴妃さまにお仕えしている、芙蓉と申します」
女官は恭しく頭を垂れた。
しかし、それを聞いた帆珠はますます困惑する。警戒を顕に身構えた。
「何ですって……? あの女が寄越したわけ? わたしを嘲笑うために!?」
「とんでもございません。わたくしの意思で参りました」
「どういうこと……?」
瞳を揺らがせる帆珠を認め、芙蓉は謹厳な面持ちになる。
いっそう鋭い声色で言を紡いだ。
「僭越ながら、手を組みませんか」
────からん、と空いた器の横に箸を置く。
味気のない粗末な食事を初めて平らげるに至ったのは、芙蓉の持ちかけた策に大いに甘心したためであった。
『わたくしは、淑妃さまが後宮へお戻りになれるよう力を尽くします』
引き換えに提示してきた要求は、芙蓉自身を側室に推挙すること。
位階は最も低く、住まう居所も最小の宮で構わないと言ってのけた。
求めるのはあくまで側室の座のみで、王の寵愛も心も望まないと言いきった。
生まれた頃より恵まれた公女として不自由なく生きてきた帆珠は、その分“持たざる者”を何人も見てきた。幾人も跪かせ、侍らせてきた。
そのたびに優越感に浸り、自尊心を満たしてきたものである。
だからこそ、彼ら彼女らの抱く羨望の念には容易に想像が及んだ。
芙蓉もまた同類で、しかしその手の妬みを飼い慣らすことが耐え難くなったのであろう。
「お食事です、蕭淑妃さま」
日に二度、小窓から配給される侘しい膳を受け取るべく帆珠は立ち上がった。
身体が重く、ひどい倦怠感に目眩を覚える。
あばら家のように崩れかけた冷宮は寒々しく、薄汚い上にあらゆる自由がなかった。
床を這う蜘蛛や鼠を何度目にしたことであろう。黴くさく、埃くさい。
肌も髪も艶を失い、割れた唇から血が滲む。冷えた指先を擦り合わせてもあたたまることは決してなかった。
帆珠に仕える千洛も同じ目に遭っていることであろう。
この冷宮の別部屋に軟禁されているはずで、時折すすり泣くような声が聞こえてくる。しかし、言葉を交わすことは禁じられていた。
蕭家の娘たる矜恃に懸け、冷宮へ入ってからは、帆珠はただの一度も涙を流さなかった。それどころか、ひとことも発することなく毅然と過ごしている。
表情を変えないまま、差し入れられた膳に手を触れたとき、ぐっと抗うような手応えを感じた。
配給係の女官が力を込め、受け渡しを阻んだようだ。
「……?」
「……淑妃さま。冷宮での暮らしはいかがですか」
帆珠は戸惑ったように瞠目し、眉を寄せる。
当然ながら配給を担当する者との会話も禁じられており、これまでここで話したことなどなかった。
彼女は何者なのだろう。
気にかけるようなことを口にする割に、案じているような声色ではない。
「あんた、誰……?」
久方ぶりに発した声は掠れてしまったが、女官は想定内の問いであるとでも言いたげな反応であった。
小窓の位置に合わせて屈み、格子越しに顔を合わせる。
「お初にお目にかかります。鳳貴妃さまにお仕えしている、芙蓉と申します」
女官は恭しく頭を垂れた。
しかし、それを聞いた帆珠はますます困惑する。警戒を顕に身構えた。
「何ですって……? あの女が寄越したわけ? わたしを嘲笑うために!?」
「とんでもございません。わたくしの意思で参りました」
「どういうこと……?」
瞳を揺らがせる帆珠を認め、芙蓉は謹厳な面持ちになる。
いっそう鋭い声色で言を紡いだ。
「僭越ながら、手を組みませんか」
────からん、と空いた器の横に箸を置く。
味気のない粗末な食事を初めて平らげるに至ったのは、芙蓉の持ちかけた策に大いに甘心したためであった。
『わたくしは、淑妃さまが後宮へお戻りになれるよう力を尽くします』
引き換えに提示してきた要求は、芙蓉自身を側室に推挙すること。
位階は最も低く、住まう居所も最小の宮で構わないと言ってのけた。
求めるのはあくまで側室の座のみで、王の寵愛も心も望まないと言いきった。
生まれた頃より恵まれた公女として不自由なく生きてきた帆珠は、その分“持たざる者”を何人も見てきた。幾人も跪かせ、侍らせてきた。
そのたびに優越感に浸り、自尊心を満たしてきたものである。
だからこそ、彼ら彼女らの抱く羨望の念には容易に想像が及んだ。
芙蓉もまた同類で、しかしその手の妬みを飼い慣らすことが耐え難くなったのであろう。