桜花彩麗伝
     ◇



 それからひと月ほどが過ぎたある日、玉漣殿には侍医が参っていた。
 時間をかけ帆珠の脈診(みゃくしん)をした彼は、それが済むとにこやかに振り向く。

「お祝い申し上げます。淑妃さまはご懐妊(かいにん)なさっておられます」

 帆珠は息をのみ、状況を見守っていた容燕と航季は顔を見合わせた。
 容燕は満悦したように顎にたくわえた髭を撫で、航季もまた喜ばしげに破顔(はがん)する。

「よくやった。大義だったぞ、帆珠」

「…………」

 妹の複雑な心情など微塵(みじん)も気にかけることなく、航季はその肩に手を置いた。
 ただひとり表情の晴れない帆珠は疎ましげに振り払う。

 正直なところ、宿したのは情も何もない男との望まぬ子である。
 母になるという言わば神聖な出来事を、これほど不本意な形で迎えるなどかつては思いもしなかった。
 さらには、生まれた子を生涯騙し通さなければならない。王や周囲のすべての目を欺き続けなければならない。
 いまから気が重く、悪阻(つわり)ではない吐き気を覚えた。
 本当に引き返せないところまで来てしまった。
 間違いを自覚していながら、しかしこれだけが自分に課せられた使命である。
 必死に正当化したところで、分かっていても割り切れない。

 さして気に留めることもなく、容燕は侍医に向き直る。

「このことはわたしが許すまで口外するでない。主上にも申すな。よいな」

「は、はあ……承知いたしました」

 不思議そうに首を傾げながらも頷いた彼が退殿すると、神妙な面持ちの容燕が人払いをした上で口を開く。

「航季、そなたは子の父親を始末せよ」

「分かりました」

 当然のように心得た彼から、帆珠へと目を移す。

「そなたにはもうひと仕事してもらう」

 このままでは、懐妊という事実に説得力が伴わない。
 王が帆珠と床入(とこい)りを果たしていないことを知る者らに訝しがられるであろう。
 辻褄(つじつま)を合わせるべく動く必要があった。



     ◇



 ────深更(しんこう)
 蕭派官吏と形式ばかりの会食を終えた王は、酔って眠りに落ちたところを内官らの手によって寝所(しんじょ)へと運ばれた。

「……まったく、近頃は酒色(しゅしょく)(ふけ)ってるな」

「心配になるほど変わられたよな。何かあったのかも────」

 煌凌を寝台(しんだい)へ横たえ、小声で言い交わした彼らが退殿すると、現れた容燕が人払いをした。
 清羽や菫礼といった側近(そっきん)たちまで下げさせると、密かに参殿(さんでん)してきた帆珠に告げる。

「同じ寝台で眠るだけに留め、あやつには触れるな」

「ええ……。承知しておりますわ、父上」

 客観的な既成事実さえ得られれば、それで十分である。
 まず目を覚ますことはないであろうが、下手に触れて彼を起こしては計画が台無しであった。
 帆珠が煌凌の眠る寝台へしずしずと歩み寄ったのを見届け、満足気に口端を持ち上げた容燕は扉を閉めた。
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