桜花彩麗伝
「できぬと申すか。然らばいますぐ御子を懐妊してみせるがよい」
「……っ」
無理だ。その方がよほど難儀である。
言葉を失った帆珠は困苦の表情で俯いた。
確かに、悠長なことは言っていられない。
矜恃も自尊心も捨て、客観的に己の状況を鑑みれば、悔しいが王は自分に見向きもしておらず、彼の子を身ごもれる気配はまったくない。
一方で芙蓉の受ける寵愛は際限を知らないようだ。
この分では床入りを果たし、彼女の方が先に懐妊してしまうかもしれない。
王は惜しみなく高位を与えるであろう。すると、自分はかろうじてしがみついているこの座さえ追われることになるかもしれない。
春蘭は寵愛を失ったといえど、その腹に御子を宿している。
鳳家という後ろ盾と併せ、その事実に守られることとなり、御子の存在のお陰で地位は磐石と言えた。
その点、自分には何もない。
蕭家という後見は、もはや帆珠の立場次第で揺らぎかねない。
それほどに不安定な崖っぷちへと追い込まれていた。
長い沈黙ののち、帆珠は顔をもたげる。
不承不承ながら、はじめから選択肢など無に等しかった。
「……分かりました。父上の仰せに従いますわ」
かくして帆珠は、夜ごと密かに宮廷を抜け出した。
王の玉漣殿への関心が低いことが皮肉にも幸いし、忍び出ること自体は非常に容易である。
蕭家の別邸で、容燕の用意した男と逢瀬を重ねた────。
当初、残酷な容燕は“種”であれば何でも構わないと適当な男を選ぼうとしたが、帆珠が矜恃を懸け、それだけは頑として妥協しなかった。
結果として、蕭派に名を連ねる若い公子が選ばれた。
末端の家門ではあるが、帆珠の最低限の自尊心は保たれたのであった。
なるべく心を空にし、ただ時間が早く過ぎ去ることばかりを願った。
宮へ帰る頃にはいつも抜け殻と化し、人知れず何度も涙を流していた。
◇
「……あれは、蕭淑妃では?」
夜分遅く、眠れないために禁苑を散策していた芙蓉は、人目を忍ぶように後宮を出入りする帆珠の姿を認めた。
「そのようです。こんな夜更けにどうしたのでしょう……」
「散策にしては妙な装いね。まさか、宮殿を抜け出してたんじゃ?」
訝しみながらお付きの女官と言を交わす。
帆珠は普段のような鮮やかで煌びやかな格好をしておらず、頭から被衣を被ってさえいた。
見たままに外出着なのか、あるいは人の目を避けたいのかもしれない。
何か裏がありそうだ。芙蓉は目を細め、じっと慎重に帆珠の動向を眺めた。