桜花彩麗伝

「……春蘭」

 こうしてまともに顔を合わせたのは、随分と久しぶりな気がした。
 春蘭の瞳が揺れる。心の揺らぎを体現しているようであった。

「…………」

 波立った感情が不意にあふれかける。
 枯れた心にわずかな潤いが戻ったが、刻まれた傷にはかえって染みた。
 どのような顔をして向き合えばよいのか、どんな言葉を口にすればよいのか、もはや分からない。
 口を結んだまま、春蘭は俯いた。

「そなたに、伝えたいことが────」

「……帰って」

 気づけばそう口にしていた。自分でも驚くほど冷ややかな声色になる。

「何も聞きたくない。あなたと話すことなんてないわ」

 その目を見ることもなく淡々と言った。
 しかし、彼が傷ついたような表情を浮かべていることは容易に想像が及ぶ。

『煌、凌……?』

『……帰るがよい。そなたと話すことはない』

 少し前は彼の方が同じようにして突き放した。何も言わないまま、先に背を向けたのは彼だ。
 いまさら分かり合えるとは思えなくなっていた。

 揺れる心に怒りが混ざる。
 欲しいときにだけ、都合よく歩み寄るなんてずるい。
 ああして冷たく突き放しておいて、そんな顔をするなんてずるい。
 そんな身勝手が許されるのが王だというのなら、それはあまりにも傲慢(ごうまん)だ。
 王ではなく煌凌に対して寄せた思いが、行き場をなくし彷徨っていた。

「……分かった」

 聞き分けよく引き下がった王は、目を伏せたまま踵を返す。
 彼が殿をあとにするまで、春蘭は徹底して顔を背けていた。
 ────きっと、強引にでも歩み寄ってこられたら、手を引かれていたら、簡単に負けてしまっていた。
 傾いた心はそれほど(もろ)く、入り込む隙間だらけだ。
 そこまで見通していながらまたしても背を向けたのだとしたら、彼はやはりなんてずるいのだろう。

「……よかったのかよ、あれで」

「いいの」

 床に落ちていた縫いかけの絹布(けんぷ)を拾い、動揺をおさえるように春蘭は息をつく。
 彼とは完全に決裂した。いっそう深まった溝は、もう埋まることはないかもしれない。
 それでも。

「……いいの」

 自分に言い聞かせるように繰り返した声は小さくなったが、凜と空間に落ちた。
 不服そうな櫂秦は口を曲げる。紫苑もまた何か言いたげであったが、春蘭は気づかないふりをした。



     ◇



 悄然(しょうぜん)とする煌凌が蒼龍殿へ戻ると、そこに悠景と朔弦が待ち構えていた。
 芙蓉を後宮へ召し上げた折と重なり、彼らの用向きに察しがついた煌凌は、居心地の悪さを覚えながらも彼らのもとへ寄る。

「陛下、帆珠殿の懐妊(かいにん)は事実ですか」

「…………」

「黙ってないで陛下の口からお答えください!」

 悠景に問いただされ、観念した煌凌はややあって口を開いた。

「それが……分からぬのだ。覚えのない夜は確かにあるが、酔っていたとしても余があの娘を抱くなどありえぬ」
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