桜花彩麗伝

 その言葉に朔弦は顔をもたげた。確かめるように尋ねる。

「酔っていらしたのですか」

「う、うむ。戸部尚書が設けた食事の席で酒を飲んだ」

 彼には完全に見限られたと思っていただけに、かくして会いにきただけでなく、話を聞く気を持ち合わせていることを少々意外に思った。

 朔弦は厳しい表情で眉を寄せる。
 戸部尚書といえば白文禪────容燕の片腕である。
 思惑を勘繰らずにはいられない、どことなく不穏な気配が漂っていた。

「それは、正確にはいつですか」



 先に下がった朔弦は羽林軍へ戻るより前に、尚薬局へと立ち寄った。
 侍医のつけている記録書を探る。
 そこには帆珠の懐妊(かいにん)に関しても記されているが、煌凌の記憶が抜け落ちている晩に事が起こったと仮定すると、少なからず時期が合わない。
 また、蒼龍殿をあとにする前、控えていた内官らから聞き取ったところによると、王はその夜、昏睡(こんすい)と言えるほど深く眠っており、夜間に起きた形跡はなかったようだ。

「まさか────」

 たどり着いた結論は、倫理観を疑うような突飛な可能性であった。
 しかし、追い詰められた蕭家の取る策としてはありえない話ではない。
 さすがは蕭家と言ったところか、反逆にほかならない所業をも豪胆無比(ごうたんむひ)にやってのけたようだ。
 書を元に戻すと、朔弦は桜花殿へ向かうこととした。



     ◇



「ありえない……」

 低めた声で呟いた芙蓉は親指の爪を噛む。
 帆珠の懐妊を聞き及んだが、到底信じ難い話であった。

 いまや王の寵愛(ちょうあい)を独占している自分を差し置き、冷遇(れいぐう)されている彼女が先に身ごもるなどありえない。
 大事にされるあまり、自分は共寝(ともね)すらしたことがないというのに。

 嫉妬の色を深めたとき、不意にはたとあることを思い出した。
 帆珠は以前、夜更けに後宮を出入りしていた。その記憶が脳裏(のうり)をよぎる。

「……もしかして、そういうこと?」

 寵愛を得ようと、地位を固めようと、躍起になる気持ちが理解できるだけに、芙蓉が勘づくまでに時間はかからなかった。
 狡猾(こうかつ)性分(しょうぶん)を持ち合わせているからこそ、残忍で欲深い彼女らの行動には容易に想像が及ぶ。
 芙蓉は思わず声を上げて笑った。

「さすがだわ。やることがちがう」

 何とも清々しいほど敢然(かんぜん)たる奸計(かんけい)に乗り出したようだが、彼らはこたびもまた詰めが甘い。
 蕭家という家門の絶対的な力を有しているお陰で、何かとその強大さに胡座(あぐら)をかいている節があった。

 しかし、いまや王を手玉にとった自分の方が上手(うわて)であろう。
 たったひとこと告げ口するだけで、彼らは終わる。
 ほくそ笑んだ芙蓉は、揚々と王のもとへ向かった。
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