桜花彩麗伝

 行くあてもなく町を彷徨った芙蓉はついに行き倒れとなった。
 正気を失っただけでなく、ひどく飢えていた。

 それを救ってくれたのが春蘭であった。
 幼かった当時から美しさの片鱗(へんりん)を覗かせるかわいらしい顔立ち、ほんのりと色づいた頬。装飾の施された上質な衣装と絹のように滑らかな黒髪。
 差し伸べられた柔らかくしなやかな手を取ったときには、思わず涙があふれた。
 とにかく神々(こうごう)しく、眩しく見えた。

 自分にないものをすべて持ち、自分の憧れそのものである彼女が“光”であればあるほど、芙蓉の心に落ちる影は濃くなった。

 それでも、彼女はまるで天女のようであった。
 もといた屋敷とは天と地の差があるような名門家に身を置くこととなったが、待遇が向上したのはそれだけが理由ではなかった。
 春蘭は優しかった。
 人の温もりを知らない芙蓉の()てついた心を溶かし、その存在を受け入れ必要としてくれた。
 奴隷でも下人でもなく、同じ“人”として、友として接してくれた。
 憧れたのは可憐な見てくればかりでなく、その清く純真な心の持ちようであった。

『どうぞ、お嬢さま。お好きな花茶です』

『ありがと。今日も美味しいわ』

 茶を淹れるだけで喜んでくれた。
 何も持たず、何もできない自分が、唯一身につけた(すべ)に自信が持てるようになったのは、紛れもなく彼女のお陰である。

(……なのに。それなのに────)

 芙蓉の瞳に涙が浮かんだ。
 出会った頃や鳳邸で過ごしたあたたかい時間を回顧(かいこ)すると、こらえきれずに頬を伝い落ちていった。

 いったい、何を勘違いしていたのだろう。
 己に身のほど以上の価値があると思い上がり、恩を(あだ)で返した。
 欲に取り憑かれ、彼女を裏切った。

 春蘭にぶつけた言葉の数々は、底知れない劣等感と妬みの裏返しであった。
 落ちた影に覆われた心が闇と化し、いつしか本気で憎いと錯覚して。
 憧憬(しょうけい)羨望(せんぼう)となり、羨望が嫉妬となった。

 しかし、春蘭が芙蓉への恨み言を口にしたことは一度たりともなかった。
 義理を欠いた末、許されない背徳(はいとく)行為へ走った自分を、それでもどうにか信じようとしてくれていた。

「…………せん。申し訳ございません、お嬢さま……!」

 とめどなくあふれる涙が冷たく頬を濡らす。
 彼女にはなれない。彼女のようには決してなれない。
 (いや)しい生まれ以前に、そのような器を持ち合わせていなかったのだ。
 身の上を恥じたり呪ったりすることがないよう、新たな道を敷いてくれていたのに、足元ではなく彼女の背ばかりを見ていた。
 だから、踏み外したのだ。これは芙蓉自身が招いた破滅だ。
 春蘭に合わせる顔などない。

「どうかお許しください、お嬢さま……っ」

 叶うのであれば、戻りたい。
 鳳邸で暮らしていた頃に。彼女と出会った頃に。

『お供します。何があっても、変わらずお嬢さまにお仕えしたいです』

 そのときは、二度とその言葉を裏切らない。
 二度と過ちは繰り返さない。
 ────しかし、いまの芙蓉にはもう、償う機会すら残ってはいなかった。
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