桜花彩麗伝

 特に春蘭には決して悟られるわけにはいかなかった。
 彼女のことをとりわけ強く意識していた芙蓉にとって、何も知らない春蘭のありのままの反応はどれも自信や優越感へと繋がったことであろう。
 それをなくしては、王の意のままに芙蓉を操ることができなかった。
 相当に彼の覚悟は固いようである。そうでなくては、傷つけ、傷つくことに耐えられなかったはずだ。

「その、朔弦……。あのときはすまぬ」

 それがいつの何のことを指すのか、心当たりのあった朔弦はすぐに思い至った。

『それが分からないのなら、あなた方は蒙昧(もうまい)暗君(あんくん)奸臣(かんしん)だ』

 頭に来てそう言い放ったが、まさかあれも王の策略であったとは。
 ────彼は存外、誰より人を見る目が肥えているのかもしれない。
 そばに置く者、遠ざけるべき者を正しく(わきま)えられる慧眼(けいがん)を有していると言えた。王として欠くことのできない能である。

「わたしの方こそ、失言をお詫びすると同時に撤回します。……ただ、王としての有能さを示されても、男としてはどうでしょう。心を寄せた者を泣かせるとは半人前ですね」

「え」

 朔弦は仕返しがてら意地悪を口にした。
 案の定、煌凌は春蘭を見やり狼狽(うろた)える。
 計略とも知らず、とんと振り回され、信じきれなくなっていたことを恥じた春蘭は苦く笑った。
 そんな彼女をもう一度引き寄せ、抱きすくめる。
 空いてしまった隙間を、深まっていた溝を埋めるように。

「もう、泣かせはせぬ。……二度と離さぬから」

 傍らで、よかったと密かに安堵する。
 自分が悪者となり突き放す代わりに、春蘭を守るべく託せるのは朔弦しかいなかった。
 果たして見立て通り、支えてくれていたようだ。
 また、それほどに────涙を流すほどに春蘭が自分を必要としてくれていたことが嬉しかった。



「────しかし、万事解決とはいきません。問題はまだ残っています」

 ひとしきりの混乱が引くと、謹厳(きんげん)な様子で朔弦が切り出す。
 芙蓉の一件は片づいたが、喫緊(きっきん)の問題といえばひとつだけであった。

「蕭帆珠の懐妊(かいにん)について」

「なあ、それもまさか王サマの作戦だとか言い出さねぇよな?」

「無論だ。ありえぬ。たとえひどく酔っていたとしても、帆珠に手を出すはずはない」

 きっぱりと断言した煌凌は、ふと思い出す。
 不審点の尽きないその事実に関して、芙蓉は“裏がある”と口にしていた。帆珠が宮廷を抜け出す姿を見た、とも。
 お陰でとある可能性へたどり着くに至った。

「……蕭帆珠が夜半(やはん)に後宮を出入りしていたこと、蕭家周辺である男が不審死を遂げたこと。それらを(かんが)みるに、結論はひとつです」

 朔弦がいっそう鋭い声色で紡ぐ。

不貞(ふてい)托卵(たくらん)……」

 声を揺るがせ呟いた春蘭に首肯(しゅこう)する。煌凌も同じ可能性を見出していた。
 あまりの謀計(ぼうけい)であり、帆珠の独断とは思えない。
 容燕が手を回していると見るのが妥当であり、だからこそ思い至ってもひとまず傍観するほかなかった。
< 521 / 597 >

この作品をシェア

pagetop