桜花彩麗伝

 思わぬ言葉に瞠目(どうもく)した帆珠は息をのむ。
 先ほどの比ではない動揺を禁じ得ず、ゆらゆらとその瞳が揺れた。
 反論しなければ、懐疑(かいぎ)を助長してしまう────しかし、わななく帆珠の唇からは声にならない不安定な息がこぼれるばかりであった。

 早鐘(はやがね)を打つ心臓の音が耳元で聞こえる。
 その事実を突き止められ、(おおやけ)にされれば、帆珠は無論のこと蕭家もただでは済まない。
 家門が没落(ぼつらく)するに留まらず、逆賊(ぎゃくぞく)として滅されることとなるであろう。
 何としても侍医を始末し、その口を封じなければ。

「気にしないでいいと思うわ。何かの間違い……というか、間違いなんてあるはずないものね?」

 余裕を失い、切羽詰まった面持ちの帆珠に笑いかけた春蘭はかくして玉漣殿をあとにした。
 桜花殿へと戻る道中、難しげな顔をしていた櫂秦は素早く歩み出て横へ並ぶ。

「なあなあ、何であんなこと言ったんだ?」

 帆珠を挑発するかのような言葉の数々であったが、意図が読めないでいた。
 春蘭は迷いのない声色で答える。

「ああ言えば、帆珠は不安に駆られて冷静さを失うはず。これでもし、侍医の命が狙われるようなことがあったら、疑惑を認めたも同然よ」

「なるほどな、混戦(こんせん)(けい)ってとこか」

 その言葉に首肯(しゅこう)した。
 “混水摸魚(こんすいぼぎょ)”────水を混ぜて魚を()る。敵の内部を混乱させることで、その力を弱めたり策や行動を誤らせたりすることを狙うという計略である。
 また、こちらの思惑通りの動きを取るよう仕向ける戦略であり、春蘭の狙いはそこにあった。

「ですが、いくら白状を誘うための策とはいえ、何の罪もない侍医が(あや)められるのは────」

「大丈夫よ。そこは手を打ってあるから」



     ◇



 夜半(やはん)、尚薬局の小門を潜った侍医の前に、牆壁(しょうへき)の陰から飛び出してきたふたりの男が立ちはだかった。
 驚く侍医に構わず、黒装束(くろしょうぞく)に身を包んだ彼らは問答無用で剣を抜く。

 そのとき、キィン! と甲高い音が響いた。(やいば)が月明かりを弾く。
 侍医に向けられた剣を跳ね返したのは朔弦であった。

 目の前で繰り広げられる剣戟(けんげき)を眺めた侍医は、おののいたようにその場に崩れ落ちる。
 しなやかながら素早く剣を振った朔弦は、ひと太刀(たち)兇手(きょうしゅ)のひとりを斬り捨てた。
 宙へ放った剣を逆手で掴み直し、もうひとりの首も裂いてとどめを刺す。
 足元に転がる彼らの遺体を一瞥(いちべつ)し、すぐさま侍医に向き直る。

「怪我はないか」

「え、ええ……助かりました。しかし、これはいったい────」

 怯んだような彼の様子を受け、朔弦は春蘭から受けた頼みもとい密命(みつめい)を思い返す。

『恐らく帆珠は真相が露見(ろけん)するのを恐れて、侍医の口封じを図るはず……。そこで、朔弦さまにお願いしたいことが』

『何だ』

『侍医の命を守り、その安全を確保して欲しいのです』

 朔弦は手早く兇手(きょうしゅ)らを捕縛(ほばく)し、口当てを下ろした。
 顔に見覚えはなく、恐らく蕭家の私兵であろう。帆珠が兄の航季に頼み、手配させた者らであると考えるのが妥当だ。

「しばらくの間、護衛をつけることとするが、おまえもしかと用心しろ」

 執念深い帆珠が、一度しくじったからといってこれで諦める保証はない。
 朔弦は厳然たる口調で警告した。
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