桜花彩麗伝
     ◇



「仕損じた……!?」

「ああ、悪い……。侍医の暗殺に(つか)わした手の者が死体で見つかったんだ。どうやら返り討ちにあったらしい」

 航季からの凶報(きょうほう)を受け、頭を抱えた帆珠は愕然と長椅子にへたり込む。
 帆珠の思惑を読んだように、侍医を守る者がいた。兇手(きょうしゅ)の正体が蕭家の私兵であることまで突き止められるのも、時間の問題かもしれない。

 懐妊(かいにん)にまつわる由々しき真相を勘づかれ、禍根(かこん)の侍医を始末することもできないとなれば、帆珠に先は見込めなかった。
 いつ露見(ろけん)するか分からない。
 いったい、いつまでこの不安と危機感に震慴(しんしょう)していなければならないのであろう。

(そうだ……)

 重圧に押し潰された心が不意に息を吹き返す。
 ────懐妊の事実ごと、宿った子ごと、なかったことにしてしまえばよいのだ。
 そうすれば、いま帆珠を悩ませている諸々(もろもろ)の問題が問題ではなくなる。
 あらゆる閉塞感から解放されるであろう。

 父と兄に内密で流産してしまおう、と帆珠は考えた。
 あくまで子が流れたことにすれば、責められはしても致し方のないこととして納得してくれるはずだ。



 口にするものは、食べものであれ飲みものであれ女官らに厳しく見張られており、細工をすることができなかった。
 いかにすれば自然を装えるか、夕餉(ゆうげ)を終えた帆珠は散策という名目で宮中を歩きながら思索(しさく)(ふけ)っていた。

 後宮を抜けところにある蓮池で、思わぬ姿を捉える。
 色づいた葉の散る桜の木に触れ、佇むのは王であった。その綺麗な横顔は物憂(ものう)げで、何かに焦がれているように見える。

「……主上は何を思ってるのかしら」

 王を見つめる帆珠を見やり、千洛が遠慮がちに口を開く。

「女官の間に流れる噂ですが、主上には初恋の娘がいたそうな……。九年前、桜の木の下で出会った少女を慕って、いまも心のどこかで焦がれているそうです」

 それは初耳であったが、憂いに満ちたような彼の表情には説明がつく。
 たとえば春蘭への傾倒(けいとう)が、埋まらない心の穴を満たすためのものであったら。春蘭を通し、初恋の少女の幻影を追っているに過ぎないとしたら。
 春蘭であることに意味があるわけではない。

 以前はああして(さげす)まれたが、帆珠が心を入れ替えたことを示せば────不貞(ふてい)托卵(たくらん)の事実をなかったことにしたのち、自分がかの少女のふりをして成り代われば、彼の心を得られる可能性があるのではないだろうか。
 半ば諦めていた寵愛(ちょうあい)を望める。春蘭より上に立てるかもしれない。
 王妃の座を射止めることができるかもしれない。
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