桜花彩麗伝



 (ほとり)から王が立ち去ったあと、帆珠は蓮池へ歩み寄った。
 鏡面のような水面(みなも)にその姿を映す。
 池には橋なども架かっておらず、そばに池亭(ちてい)もないが、(ひら)けた閑雅(かんが)な景色は息をのむほど美しかった。

「こんな場所があったなんて……」

 そう呟いた帆珠は、ふと思い立ったようにその場へ屈んだ。
 手を伸ばし、水に触れてみる。指先を刺すような冷たさが染みた。

「…………」

 水面の自分と目が合う。
 ここへ飛び込めば、あるいは────。

「……千洛。あんたに頼みがあるの」



     ◇



 禁苑(きんえん)を散策していた帆珠が蓮池のふちで足を滑らせ、冷たい水の中に落ちた。
 清羽からそんな報告を受けた王は、容燕の目があるために玉漣殿を(おとな)い、彼女を見舞った。
 池に落ちた帆珠のことはすぐさま女官たちが助け出し、侍医の診察を経て母子ともに無事であると明かされた。

「まさか主上が来てくださるなんて……」

 寝台(しんだい)に腰を下ろす帆珠は意外そうに言いながら頬を染めた。
 子を流す作戦はひとまず失敗してしまったが、王自らが会いにきてくれたというだけですべてが報われたような気になる。
 いまの帆珠にとって、彼は希望であった。

「……大事ないようで何よりだ」

 王の声は淡々(あわあわ)しく、そこにはいかな感情も込もっていないように感じられる。
 心地よい拍動とともに浮ついていた帆珠の心に落胆の色が滲み、浮かべていた笑みがみるみる消えた。
 口を結んだまま、王を見つめる。

 自分こそがかの少女であるという偽りを信じてくれれば、宿した子が彼との実の子でないことがいつか露呈(ろてい)しても受け入れてくれるかもしれない。
 それ以前に、疑われることも(うと)まれることもなくなるかもしれない。
 もう、自分にはそれしかない。

「……主上のお心には、いまも九年前の少女が?」

 そう尋ねると、彼ははっと顔をもたげる。驚いたように秀眉(しゅうび)をひそめた。

「なぜ……そなたがそれを?」

「わたくしなのです。あのとき、桜の木の下で主上にお会いしたのは」

 煌凌の瞳が揺れる。
 衝撃と動揺が見て取れ、初めて本当の意味で目が合ったような気がした。

「そなたが……?」

 まさか、と思う反面、ありえない、とあくまで冷静な自分が内心でかぶりを振る。
 いまや思い出の中にしかいないが、あの少女の(ほが)らかで優しい姿と帆珠の性分(しょうぶん)は似ても似つかない。
 本当に少女なのであれば、かくも不安気で探り探りなもの言いは妙としか言いようがなく、そもそも手渡したあの佩玉(はいぎょく)を持ち出さないわけがない。

「────嘘はもうたくさん」

 突如として、殿内に透き通るような声が響いた。
 扉から姿を現した春蘭は、凜然とふたりのもとへ歩み寄る。

「あなたじゃない。あの日、彼を見つけたのはわたしだから」
< 525 / 597 >

この作品をシェア

pagetop