桜花彩麗伝

第二十九話


 見張りの兵に袖の下を握らせた黑影は、錦衣衛の獄舎(ごくしゃ)へ忍び込んだ。
 格子(こうし)越しに密かに航季と(かい)する。

「父上のご様子はどうだった?」

「……追い込まれ、相当参っておられるようです。近頃は酒浸りで、執務室に(こも)っておられます」

 誰も近づけようとせず、誰の言葉も聞き入れない。
 それでいて時折、室内からは話し声がしていた。とはいえ、聞こえてくるのは容燕ひとりの声であったが。

「そうか……」

 航季は険しい面持ちで瞑目(めいもく)する。父を支えられるのはもう、自分のほかにいない。
 何としてでも役に立たなければ。

 傾きかけたいまの蕭家が持ち直すのに必要なことは何だろう。
 父は何を求めているだろう。
 凋落(ちょうらく)への一途(いっと)を覆すには、のさばる鳳家がどうしても妨げとなる。
 連中がいる限り、傀儡(かいらい)であったはずの王が意思を持ち、自分たちにとって不利に働く。
 ────その中核(ちゅうかく)を担い、王の心を惑わした張本人である春蘭が消えてくれれば、危機に追い込まれるは鳳家であろう。

「……黑影、貴妃に刺客(しかく)を送れ」

 厳然(げんぜん)たる声色を受け、黑影は顔をもたげる。

「もう失敗は許されない。宮外に出る折を狙い、おまえが自ら指揮を()れ。あの女を確実に始末するんだ」

「……承知しました」



     ◇



 蕭家を陥落(かんらく)するまでもうひと息といったところまで来たが、敵将である容燕までもを獄中へ引きずり込むのに苦戦していた。
 牢にいる航季を利用すべきか、あるいは別の一策を講じるべきか────春蘭たちは宮廷を抜け出し、教示を受けるべく夢幻の住まう堂へ向かっていた。

「なーんか久しぶりだな。それどころじゃねぇくらい、後宮の事件が目まぐるしかったからか」

「ええ、それに光祥も戻ってきてくれたしね。彼も何かと夢幻を気にかけてくれて────」

 がたん、と唐突に軒車が跳ねるようにして止まった。
 何事かと小窓を開けると、馭者(ぎょしゃ)を兼ねる紫苑の硬い声が聞こえてくる。

「……お嬢さま。絶対に降りないでください」

 彼がそう言った途端、ざっと複数の足音がした。
 小窓から確かめたところ、軒車は黒装束(くろしょうぞく)の男たちに包囲されている。
 こぞって剣を構えている彼らに、おののいて心臓が早鐘(はやがね)を打った。

「刺客か」

 低く呟いた櫂秦は、床に置いていた剣を取る。素早く(さや)を払うと戸に手をかけた。
 春蘭は思わず引き止めるようにして裾を掴む。

「待って、危ないわ」

「だから行くんだろーが。俺たちが戦わねぇで誰がおまえを守るんだよ」
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