桜花彩麗伝

 冷ややかに踵を返し、紫苑は先に歩き出した。
 顔を見合わせた春蘭と櫂秦は呆然と佇む容燕を残し、そのあとを追う。

 桜花殿へ帰還すると、ようやく紫苑は緊張と警戒を解くことができた。
 しかし、息つく間もなく櫂秦に腕を掴まれる。

「なあ、どういうことだよ。おまえが碧依ってことは、蕭家の……容燕の息子なのか?」

 想定通りの展開ではあったが、すぐには答えられなかった。
 重たげに黙しながら俯く彼が口を開くまで、ふたりは()かすことなくただ待っていた。やがて諦めたように目を伏せ、首肯(しゅこう)してみせる。

「……そうだ。わたしは蕭家の嫡男(ちゃくなん)として生まれた。正真正銘(しょうしんしょうめい)、あの男の息子だ」

 春蘭は瞠目(どうもく)し、息をのむ。衝撃を受けた櫂秦の力も緩み、彼を掴んでいた手がゆるりと離れた。
 しかし、合点がいく。
 これほどの品格や才気(さいき)を持ち合わせていながら、姓も実の名も持たず、執事や用心棒であることに甘んじ、立身出世(りっしんしゅっせ)に興味を示さない────など、はじめから妙でしかなかった。

 春蘭のもとに留まることは本意であったようだが、宮廷へ勤めることには消極的だった。
 向上心がなかったわけではなく、諦めていたのだろう。名乗れない彼は、そもそも科挙を受けることができなかったから。
 春蘭の入内(じゅだい)前、朔弦が口にしていたことを思うと、彼も彼で紫苑の正体を訝しんでいたと察しがつく。
 ともかく随所(ずいしょ)で櫂秦が覚えた、紫苑に対する違和感の数々はすべて霧消(むしょう)していった。

「これまで隠していて申し訳ございませんでした、お嬢さま。騙すつもりはなかったのですが、混乱させてしまうかと……」

 というよりも、単に知られたくなかったのだ。
 ()むべき蕭家の血を引いている。それだけで春蘭や元明、緋茜を裏切っているような後ろめたさがあったし、軽蔑(けいべつ)され敵視され、居場所を失うことが何より恐ろしかった。

「そりゃびっくりはしたけど……でも、あなたはあなたでしょ?」

 春蘭はこともなげに言う。

「生まれなんて関係ない。大事なのはいまよ。生まれる前から一緒に過ごしてきて、あなたのことはよーく分かってる。どれだけわたしやお父さまを想ってくれてるか、ってことも」

「それは……当然です」

「ふふ。……うん、そう言ってくれると思った。罪悪感を感じる必要なんてないの。何も変わらないんだから」

 笑みをたたえながら告げられたのは、咎めていた心を救ってくれる優しい言葉であった。
 いつかこのことを明かしたとき、春蘭であれば受け入れてくれる。紫苑もまたそう彼女を信じていたが、まさしくうぬぼれではなかったようだ。
 そのことに心から安堵し、築いてきた互いの信頼の厚さを誇らしくさえ思った。

「……っつーことは、あれだ。おまえは俺と同じってわけだな」

 本家と絶縁し、名を捨てたという意味では確かに同じであろう。
 櫂秦は親しげに彼の肩に手を回した。

「けど、ガキのうちに見限って家出るとか普通できねぇよ。すげー覚悟だったんだな」

「父のようにはならない……そう誓って縁を切った。もう一度そのときに戻っても、同じ選択をするだろう」

「じゃあ、わたしたちの目的も変わらないわね」

 意志の強い双眸(そうぼう)で言った春蘭をふたりして見やる。
 ────後悔はない。この先も、後悔などしない自信がある。
 口端を持ち上げた櫂秦が頷くと、紫苑も決然と首肯(しゅこう)するのであった。
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