桜花彩麗伝
     ◇



 一切の光が射さない羽林軍の地下牢は、まさに地獄のような場であった。
 頑丈な石壁や床には数多(あまた)の罪人たちの血と悲鳴が深く染み込んでおり、決して乾くことはない。
 強烈な鉄臭さと(かび)臭さに満ちた、湿っぽい空気が充満している。
 この世の絶望を集約した陰鬱(いんうつ)な空間であった。

 木椅子に拘束された宋妟は、微弱(びじゃく)な浅い呼吸を繰り返していた。
 まとった衣も白銀の髪も真っ赤な鮮血に染め上げられ、顎先や指先から血の雫が落ちていく。
 朦朧(もうろう)とする意識の中、がっくりと項垂(うなだ)れた。
 もはや身体に力が入らず、全身を(むしば)む苦痛にも慣れてしまった。
 それでも、新たに苛虐(かぎゃく)を受けるたび、嫌でも意識が覚醒する。
 脳天を貫くような激痛にいっそ気絶してしまいたかったが、それは許されなかった。
 忍耐の限界を超え気を失っても、容赦なく冷水を浴びせられては地獄へと連れ戻される。
 こんなことが永遠に続くのかと思うと、気が狂いそうになった。

「しぶといな……何年も隠れ生き延びてきただけあるぜ。悲鳴ひとつ上げずに耐え抜くとは」

 腕を組んだ悠景は血まみれの宋妟を見下ろし、感嘆したように言う。

「だが、いつまでもつだろうな。精神は耐えられても肉体がくたばれば死んじまうぞ」

「…………」

 宋妟は答えなかった。荒い息遣いと血の滴る音、そして錆びた鎖の音が静寂に蔓延(まんえん)している。
 ────ふと、足音が近づいてきた。
 石階段を下り、地下牢を(おとな)った旺靖は悠景に一礼する。

「よお、そっちはどうだ」

「はい、大将軍。お嬢の方は洗いざらいぜんぶ吐きましたよ」

 揚々と言ってのけると、その言葉に宋妟が力なく頭をもたげた。虚ろな双眸(そうぼう)にふたりを捉える。
 悠景は意外そうに瞠目(どうもく)した。

「本当か? あの貴妃がそんなに簡単に折れるとは驚いたな」

()が拷問を受けてるって脅したらあっさり観念しましたね。実に“らしい”ですよ」

 宋妟を救いたいがために、手にある栄光を手放すことも己が悪者となることも(いと)わなかった。
 自身より他人を優先する心優しい性分(しょうぶん)を利用し、旺靖は見事に弱点を突いてみせたのであった。

「……っ」

 宋妟は悔しげに傷だらけの手を握り締める。
 このまま黙っていては、春蘭ばかりが一身で責めを負う羽目となろう。

「……だ、そうだ。おまえはどうする?」

「…………」

 この三年間、彼女には十分すぎるほど守られ、救われた。生き永らえたのは彼女のお陰だ。
 最後まで守られ続ける甲斐性なしではいられない。いつか“そのとき”が来たとき、堂々と名乗れないような選択はしたくなかった。それはすなわち兄の顔に泥を塗ることになるであろう。
 何も知らなかった彼女を犠牲にはできない。明かさなかったのは自分だ。
 この窮地を覆すことができるのも、自分のほかにいない。

 宋妟は白銀に朱を溶かし込んだような髪の間から、決然とふたりを()め上げる。

「……分かり、ました。王の御前(ごぜん)で……すべてお話しします」
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