桜花彩麗伝

「……崖から転落したわたしを救ってくれたのは、確かに春蘭でした。ですが、わたしの素性も罪状も知らない。当然、兄も無関係です。兄に至ってはわたしが生きていることすら知りません」

 つい身を乗り出した宋妟を、両脇に立つ兵らが取り押さえる。
 それでも彼が怯むことはなかった。

「わたしの無罪を信じてくれなくても構いません。その場合の罰は甘んじて受けましょう。ですが、罰するのはどうかわたしだけに……!」

 王は神妙な面持ちでその言葉を受け止める。
 同情を誘うべく芝居を打っているようにも、情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)を狙うべく偽りを口にしているようにも見えなかった。

 朔弦も固く口を結んだ。独自に探っていた頃からやはり心象(しんしょう)は覆らない。
 ひとえに家門の安泰を図り、粉骨砕身(ふんこつさいしん)の精神で尽力してきた宋妟が、さような愚行(ぐこう)に走るはずがない。
 門番を殺める動機もなければ、わざわざ宮中で事を起こす(いわ)れもないのだから。
 当時、頭角(とうかく)を現し始めた彼を警戒した蕭家が、杭を打つべく(はか)ったという主張には筋が通っており腑に落ちる。

 悠景は思わずどこか気圧(けお)された様子で黙した。
 莞永はいまにも泣き出しそうなほど沈痛(ちんつう)な表情をたたえ俯いている。
 ややあって心を決めたように王が口を開こうとしたそのとき、沈黙を貫いていた旺靖が先んじて言を紡いだ。

「────でも、官衙に捕らえられてた罪人を密かに逃がしてたのはあんたでしょう」

 はっと瞠目(どうもく)した宋妟を見やり、旺靖は小首を傾げてみせる。

「もう随分と前からそんなこと続けてた。そうでしょ?」

「どういうことだ」

「ご存知ないですか? 官衙の牢破りが問題になってたんですよ。特に最近は目に余るほど大胆で」

 訝しげに口を挟んだ王に淡々と答えた。
 悠景はふと記憶を辿る。そういえば、部下がそんな報告に来ていた────自分はあのとき取り沙汰せず一蹴(いっしゅう)したが、どうやら旺靖は独自に調べを進めていたようだ。
 まさか、あの牢破りの手引きをしていたのが宋妟であったとは。
 驚愕を禁じ得ないが、彼の反応からして間違いないであろう。沈黙は肯定を意味していた。

「何のためにそんなことを?」

 悠景に尋ねられた彼は、困苦を滲ませ目を落とす。
 ややあって観念したように口を開いた。

「わたしと同じ目に遭う者を少しでも減らしたかったのです。……冤罪だと訴える者を、到底見過ごせなかった」

 獄を破り逃亡するのに手を貸したのは、一様に無実を主張する罪人たちであった。
 しかし、中には正当な裁きや調べを受ける前の者もいた。
 無論、逃げたいがために嘘をついた者もいたことであろう。そんなことは百も承知であった。
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