桜花彩麗伝
     ◇



 陽龍殿を(おとな)った光祥は既に、町での素朴な格好に戻っていた。
 伸びやかな様子で茶を飲む。

「またも兄上には助けられました。どう報いればよいのか……」

「堅苦しいこと言わないでくれよ。僕がしたくてしたことだ」

 蓋碗(がいわん)茶托(ちゃたく)に戻すと立ち上がり、(かしこ)まる煌凌の肩に手を添えた。
 上品で優しい見慣れた微笑に、強張っていた心がほどけていく。
 王位を狙う腹積もりなど、彼ははじめから微塵(みじん)も持ち合わせていなかった。
 玉座や想い人を口実にされても決して揺るがないほど、比にならないほど、確固たる意志がある。

 ────考えたことはある。
 あの惨劇が起こることなく、もしも自分が王位を継いでいたら。
 すべてを手にした弟を羨んだこともある。それでも、それだけだ。
 自身が王となっていたとして、いまある忠実な人才(じんさい)の心を余さず得られていたかどうかは分からない。
 彼らが王と認めたのは、紛れもなく煌凌なのだから。

 そして、春蘭のこと。彼女に惹かれ、心を望み、その存在を得たいと願った。
 しかし、自分には到底及ばないことを悟ってもいた。
 愛しげに(いつく)しみ合うような眼差しと微笑みを交わす“ふたり”の姿を目の当たりにしたとき、もはや(ねた)む気持ちすら湧かなかった。
 彼女とともにいても、光祥はただの一度もそんな表情をさせられなかった。

 だから、いまは思う。
 そんな大切な存在を遠くからでも見守っていられたらそれでいい、と。
 弟を(おびや)かす存在でありたくない。
 今度、旺靖のような悪辣(あくらつ)奸臣(かんしん)が現れれば、煌翔の名を(けが)さぬよう、不埒(ふらち)な大義名分に利用されないよう、死を選ぶつもりでいる。無論、()()()()()()()()()()()()ように。

「僕は町での暮らしに戻るよ。きみたちの幸せを願いながら、いままで通り」

 煌凌は頷いたが、気にかかることがあって胸中が晴れない様子である。
 光祥に問われるより先にぽつりと口を開いた。

「……春蘭の、ことですが────」

 鳳宋妟の蔵匿(ぞうとく)に関しては不問に付す判断をしたため、相対的に彼女への処分も不要となるはずであった。
 しかし、十年前の一件とは別で、宋妟は牢破りの罪を犯していた。
 悠景の言っていた通り“罪人を(かくま)っていたこと”自体は、知らなかったとはいえ事実である。
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