桜花彩麗伝
     ◇



 冷たい夜の空気が注ぐ中、王は蓮池の(ほとり)に佇んでいた。
 禁苑にある枯れた桜の木を眺めるその姿を、灯籠(とうろう)がぼんやりと照らし出す。
 控えめな足取りで歩み寄ってきた朔弦の存在に気がついたが、煌凌は振り向かなかった。

「……陛下にお話が」

 ()とも(いな)とも答えは返ってこなかったが、朔弦は構わず言を紡いだ。

「わたしも、春蘭が鳳宋妟を堂に(かくま)っていることは、以前から知っていました。それでも黙っていた」

 さすがに宋妟による牢破りの件までは把握していなかったが、蔵匿(ぞうとく)の事実が明るみに出るよりずっと前から、その全容と事情をすべて知りながら口を噤んでいた。

「それに偽装懐妊(かいにん)のことも、最初に提案したのはわたしです。彼女はそれを聞き入れたに過ぎない。それを罪に問うと言うのであれば、わたしにも罰を」

 仰いでいた煌凌がゆるりと(かえり)みる。
 その(かげ)った双眸(そうぼう)から目を逸らさず、朔弦は毅然と続ける。

「いつでも宮殿を出る覚悟はできています」

「……誰にも覆させぬと言ったはずだ。そなたとて口出しは許さぬ」

「ですが、わたしにも責任があります。すべてを春蘭に背負わせてまで、ここに留まる資格など────」

「頼むから……!」

 煌凌の声が墨のような夜空へ吸い込まれていく。
 眉根に力を込め、縋るような眼差しで朔弦を捉えていた。

「誰も……もう、これ以上、余から離れるなどと言わないでくれ」

 暗色を帯びる瞳に涙を溜めていた。それがつとこぼれ落ちる前に顔を背ける。
 春蘭も元明も朔弦も去っては、いったい誰が残るであろう。
 また、ひとりぼっちになる。ようやく真の意味で玉座の主となったのに、結局てのひらは空っぽのまま。

 気圧(けお)されたように口を噤んだ朔弦は、何も言えず目を伏せた。
 永遠のように感じられるほど重たげな沈黙を、さらりとした風が攫っていく。
 息をついた煌凌は一拍ののちに口を開いた。

「……どうしても償いたいと言うのなら、よかろう。悠景の跡を継ぎ、左羽林軍を率いるがよい」

 思わぬ言葉に朔弦は顔を上げる。惑うような彼に王は頷いてみせた。
 こたび画策(かくさく)された謀反(むほん)を阻み、反乱軍を鎮圧した朔弦の功績は至大(しだい)である。
 本来であれば三代を(めっ)しても不足であるほどの大罪であったが、悠景が謝家の家門に(こうむ)らせた汚名は朔弦の活躍により(そそ)がれた。
 彼が謝家当主の座を継ぐことも、左羽林軍大将軍の地位を継承することも正当かつ妥当な躍進であろう。
 彼がいるからこそ、王は断罪の折にその一門を没落させることなく家格(かかく)を守ったのであった。

「これからも余を支えてくれぬか……?」

 朔弦は叔父に放った言葉を思い返した。

『わたしはようやく存在意義を見つけたのです。この国のため、陛下に尽くしたい。……叔父上の影として生きるのではなく』

 その信念を貫くことこそ大義(たいぎ)である。主と定めた王に。忠誠を誓うべき相手に。
 そうまで自分を必要とし、信頼してくれる彼を裏切るわけにはいかない。
 揺るがない覚悟を胸に、朔弦は跪拝(きはい)した。

「仰せの通りに」
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