桜花彩麗伝
     ◇



 荷の運び出された桜花殿は、調度(ちょうど)が残っているにも関わらず、がらんと寂しげな様子であった。

 回顧(かいこ)するときりがないほど、ここでは様々なことが起きた。
 私利(しり)(むさぼ)(はかりごと)で陥れられては他人の悪意に触れ、果てに大切な存在を失った。
 それでも、ここでなければ得られなかったであろう、かけがえのない愛を知ることもできた。……それももう、失うことになるが。

「…………」

 春蘭は左手の薬指にはめていた紅水晶の指輪を外した。
 これだけは持ち帰れない。ことりと円卓の上に置くと、踵を返し殿をあとにした。



 表に待っていた紫苑と櫂秦、それから橙華とともに宮門へ向かって歩き出す。
 橙華は王の温情によってお咎めなしに女官を続けられるはずであったが、自ら辞すことを希望した。
 ともに宮殿を出て、芙蓉に代わり春蘭の侍女となることを望んだのであった。

 少しく歩いたところで、櫂秦はわざとらしくため息をつく。

「抜け道から出た方が早いんじゃね? 荷物重いしよー……」

「錦衣衛に露呈(ろてい)して塞がれたそうだ。それに、軒車が宮門前で待っている」

「主上が密かに手配してくださったそうですよ。お嬢さまのことをとても気にかけていらっしゃいますね」

 橙華の言葉に図らずも複雑な心境に陥ってしまう。
 彼はまた、ひとりになる。
 周囲に有能な人才(じんさい)が集まっても、本質的には変わらない。彼らの務めは煌凌の孤独を埋めることではないから。
 思わず俯きかけたとき、ふと「お嬢さま!」と呼ぶ声が聞こえた。

「莞永。……と、朔弦さまにお父さま」

 宮門の脇に彼らが待っていた。見送りへ来てくれたのであろう。
 宮殿を出る前に会えたことが嬉しく、春蘭は顔を綻ばせる。

 久しぶりに(かい)した父を見やると、何ら変わらない優しい笑顔が返ってくる。
 元明は労るような眼差しを向けた。

「お疲れさま」
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