桜花彩麗伝

 いまの娘にかけられる言葉は、そのほかに見つからなかった。
 過酷な後宮での戦いの日々を終え、大任(たいにん)や使命から開放されたいま、慣れ親しんだ鳳邸へ帰着したのちには心身が休まるよう願った。

「よく頑張ってくれたね。……ありがとう、春蘭」

 かくも心優しく強く成長した娘を目にしたら、緋茜は何と言葉をかけたことであろう。元明は目尻を拭った。
 春蘭は小さく笑みつつ頷いてみせる。
 一連の騒動を受け、元明は王に辞職を願い出たが、王は頑なに拒んだという。
 王にも鳳家にも朝廷にも、彼の()()は必要であろう。

 それから春蘭は朔弦に向き直った。
 端正な顔は相変わらず淡々としており、何の表情も浮かんでいないように見受けられたが、その双眸(そうぼう)には以前よりもいくらか覇気(はき)を宿していた。

「朔弦さま。……煌凌のこと、お願いします」

「心配するな」

 何気ない口調で言ったつもりが、つい寂しげな響きとなってしまう。
 それでも朔弦は毅然と頷き返してくれた。

「また、将軍と……じゃなくて、大将軍とご挨拶に伺いますね」

「ええ、いつでも。そのときは一緒に夕餉(ゆうげ)でも食べましょ」

「それはいいね。近頃は屋敷もがらんとして寂しかったし、賑やかなのが恋しかった。楽しみにしているよ」

 春蘭の言葉と元明の快諾(かいだく)を受け、ぱっと顔を晴れやかにさせた莞永は笑顔で朔弦を見やった。
 彼もまた、ほのかに笑んでいた。

 ────季節はもう、冬も半ばにさしかかっている。
 冬木立(ふゆこだち)の映える澄んだ蒼穹(そうきゅう)は、穏やかに晴れ渡っていた。

 変わったこと、変わらなかったもの、すべてを抱えながら春蘭は宮殿を振り返る。
 絢爛豪華(けんらんごうか)で華やかな場であるが、わずかでも足を踏み外せば奈落へと転落していく伏魔殿(ふくまでん)。それでも、彼の隣が心地よかった。
 追放という形で町へ下りる春蘭を、王である煌凌は見送りにくることも叶わない。
 蒼龍殿のある方角へ、春蘭は別れを告げるべくゆっくりと跪拝(きはい)した。
 ……もう二度と、会うこともない。
< 582 / 597 >

この作品をシェア

pagetop