桜花彩麗伝
最終章 巡る春風

第三十五話


 ────瞬く間に季節は流れ、春になった。
 玻璃国は桃や桜が可憐に咲き誇る柳緑花紅(りゅうりょくかこう)の景に包まれ、あたたかく穏やかな日和(ひより)享受(きょうじゅ)していた。

 鳳邸の自室で書を読んでいた春蘭は顔を上げ、開け放たれた丸窓から庭院(ていいん)を眺める。
 はらりと舞い込んだ薄紅色の花びらが、思わず伸ばしたてのひらに落ちた。

『あなたは────』

 雪のような花吹雪の中、桜の咲く丘で煌凌と“再会”を果たしてから、もう少しで一年が過ぎる。
 激動の一年間を駆け抜け、彼の治世(ちせい)は天下泰平を迎えていた。ある一点を除いては。

「…………」

 いまもまだ、彼は空っぽの後宮を守り続けているそうだ。
 世継ぎの問題を重視した(おみ)らが何度朝議で取り上げても、王家と姻戚(いんせき)になろうという目論見のもと佳人(かじん)が献上されても、見向きもせず突っぱねているという。

 そのことに、どこかほっとしている自分がいた。もう、本物の妻女(さいじょ)にはなれないどころか妃ですらないのに。
 逃げきれないことは、腹を(くく)らなければならないときが来ることは、彼自身もよく分かっているはずだ。
 王にとって婚姻は義務である。王である彼は、いずれ遠くないうちにどこかの姫を(めと)ることとなる。
 今度は本物の妃を。
 それでも、彼はいったいいつまで待ち続けてくれるのだろう。

「お嬢さま、お客さまがお見えです」

 橙華に声をかけられ、はたと我に返る。
 客間へ向かうと、そこには白銀の髪をそなえる人物の姿があった。
 優美な微笑をたたえる彼に春蘭も笑み返す。

「叔父さま」



 円卓につき、橙華の運んできた花茶を飲んだ。
 宋妟の軟禁(なんきん)は既に解かれていたが、そのまま別邸に住まうこととなり、かくして時折、本邸へ足を運んでくれるようになった。
 光祥は堂でそうであったように、別邸にもよく顔を出しているようだ。町で見聞きした話を土産に、夕餉(ゆうげ)をともにすることもあるという。

「春蘭、今日はあなたに聞きたいことがあって来ました」

 ふと改まったような様子につい身構えるが、彼はあくまで柔和(にゅうわ)な態度で言を繋ぐ。

「あなたの目から見た王のことを教えてください」

「王の、こと?」

 意表(いひょう)を突かれたように聞き返した春蘭に頷くと、彼女は考えるような素振りで記憶を手繰(たぐ)った。
 間を置き、言葉を探してから口を開く。

「……彼を間近で見てきて思ったわ。弱くてだめだめな王なんかじゃない。いつだって物事の本質を見通してる」

 未熟ながら奮闘し、ともに蕭家を打ち倒した。
 そのとき彼は“惰弱(だじゃく)傀儡(かいらい)”などという汚名(おめい)を返上し、(おみ)らの侮蔑(ぶべつ)の眼差しをことごとく跳ね返したのである。

 瞬く間に“王”になっていった。そのあり方を悟り、芽生えた自覚をしかと抱きながら。
 いつしかそんな彼に信を置き、主と認めた有能な臣下が(つど)った。
 彼の治世(ちせい)では、先行きは明るい。
 もう、民が泣き寝入りを()いられることもない。弱者が強者にねじ伏せられ、真実が歪曲(わいきょく)することもないであろう。

聖君(せいくん)を志してるんだもの。“民のための世”が、夢物語じゃなくなったわ」
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