性悪陰陽師は今日も平気で嘘を吐く。
朝の掃除当番を無事終えた類は誠の小さな背中を見送ると、後ろ髪を引かれる思いで母屋へと帰宅した。
(誠君、大丈夫かな…?)
あの後、イジメの件について何も解決策を見出せなかった自分に罪悪感を感じる。せめてもう少し具体的なアドバイスができたら良かったのだろうが、生憎類はそんな言葉を持ち合わせて居ない。
(光さんに相談した方がいいのかしら…?)
誠は光のことを《優しい人》と言っていた。それが事実かどうか今のところ知る由は無いが、彼にとって光はかけがえのない存在であることは何となく理解ができた。
(うーん…、でも何て相談すれば)
いかんせん、とてもデリケートな悩みである。全くの部外者が顔を突っ込むのもいかがなものだろうかー。
もんもんと思考を巡らせながら、類は母屋の長い廊下を歩いていく。
大広間の横を通り過ぎようとした時、ふと視界の端あたりに誰かが写り込んだ。
(あれ?、誰か居る…?)
類はそのまま顔を横に向けると、広間に置かれた長机の前に座る可憐な女性と視線がぶつかった。
「こんにちは」
「こ、こんにちは!」
類は慌てて頭を下げる。すると女性は優しくにっこりと微笑んだ。
「貴方が、南雲類さん?」
女は優しく尋ねる。
「は、はい!私が南雲類です…!。えっと、貴方は?」
類も同じ様に名前を尋ねようとすると、台所から茶器を盆に乗せた礼二が姿を現した。
「おー。お前掃除終わったのか?」
「はい。一応全部…」
どこか戸惑い気味に答える類の姿に礼二は首を傾げる。
「んだよ、どうかした?」
「いや、その、そちらの方は?」
類の言わんとしてることをようやく理解したのか、礼二は「あー、そうだったな」と納得した様子で盆を机の上に置いた。
「こいつは、東京の国立病院に勤務してる久瀬瑞稀《くぜ みずき》先生。一応精神科医で今日はお前と面談する為に来てもらったんだ」
言ってなかったか?と頭を掻く礼二の姿に類は聞いていないです。と素直に答える。
「ごめんなさいね、南雲さん。こいつ昔からそういう奴なの。これからは光にお願いする事にするわ」
まるで昔から知っているかの様な口ぶりに、類は思わず「光さんともお知り合いなんですか?」と尋ねる。
「えぇ。よく知ってるわ。彼の能力の事もね」
瑞稀は可愛らしくウィンクをしながら答える。普通であれば少々痛い感じになるその行動も、何故か彼女にはとても自然な行動の一つに見えた。
「知り合いっつーか、幼馴染な。俺ら」
礼二はお茶を入れながらそう話を付け加えると、類に「お前も座れよ…」といって、瑞稀の席と向かい側の席に一つずつお茶を置いた。
類は素直に差し出されたお茶の前に座ると、少し緊張した面持ちで背筋を伸ばす。
「あら、そんなに固くならなくていいのよ。女子会みたいな感じでやりましょ?」
瑞稀はそう言うと高そうな鞄から一つの包み紙を取り出す。
「南雲さんは、羊羹とか好きかしら?」
「は、はい。時々食べます…」
実際はそこまで好きではないが、ここで自己主張できるほど世間知らずでもない。
「あら。よかったわ。じゃあこれ食べながら色々お話ししましょ?」
瑞稀は嬉しそうに包み紙を剥がすと、一つずつ個包装された羊羹を類に手渡す。それを合図に礼二は「じゃ、俺は女子じゃねぇんで…」といって台所へと姿を消した。
「さて。じゃあ早速面談件、女子会を始めましょうか♪」
瑞稀はパチンと両手を合わせると、可愛らしく「いただきます」と言って羊羹についたフィルムを剥がし始める。
「え、えっと…面談って、どういう経緯でそうなったんですか?」
飛び降りをしようとしていた事をあまり他人には知られたく無い類は言葉を濁しながら尋ねる。
「そりゃあ…、大仕事を終えた貴方のメンタル面が心配だ。って光が煩くてね」
瑞稀は羊羹を食べながら答える。
「光さんが…?」
「そ。そんで、精神科医である私がここに派遣されてきたわけ。貴方の精神状態がどうか確認する為にね♪」
瑞稀の話に類は昨晩の光を思い出す。
(心配してくれてるのかな…)
ふと、そんな考えが過ったが彼のことだ。きっと仕事の都合上、病んでしまっては困るという事なのだろう。
「で?光との初仕事どうだった?」
「どうって言われても…」
怖かったー。
この言葉一言に尽きる。
「怖かった?」
「はい。とても…」
「でも、貴方は生き延びた。それもあいつの力なしに」
瑞稀の言葉に類の瞳が揺れる。
「私…気がついたら知らない空間に居て…、なんか朧げにしか覚えていないんですけど…、誰かと話してて…、それで…」
類は昨晩の出来事を思い出そうとする。しかし、何かに邪魔される様に断片的にしかその記憶を思い出す事ができない。
「あまり、覚えてないのね」
「えぇ…、昨日までは何となく覚えてたんですけど…、何か今日は上手く思い出せません…」
類は瞳を伏せると、掌をギュッと握りしめる。
「別に鮮明に覚えてる必要なんて無いのよ。大事なのはその時貴方が何を感じていたか、恐怖の他に感じることはあったのかしら?」
瑞稀は、丁寧な所作で湯呑みに口をつける。
「…悲しい。ですかね」
「悲しい?」
「はい。悲しいです。後は怒りも感じました…」
類は俯いたままポツリ、ポツリと言葉を吐き出す。
「どうして、そう感じたのかしら?」
「それは…可哀想だと思ったからです」
「怨霊が?」
「はい…」
「じゃあ、怒りは?」
「何故、逃げ出さなかったのか、何故そんな男に執着していたのか」
「共感してしまったのね」
瑞稀の言葉に類は顔を上げる。
「多分、そうなんだと思います…。癖なんです。小さい頃からの。泣いてる人を見ると自分も悲しくなるんです」
類の話に瑞稀は頷く。
「その気持ちわかるわよ。自分事として捉えちゃうのよね?」
「はい…、だからいつも誰かと一緒にいると疲れてしまって…、家族でも酷く疲れてまうんです」
そう。どんなに仲良くなろうと、どんなに親切な人であろうと、何故かいつも疲れている。
「人の気持ちに敏感なのね…。でもそれって素晴らしいことよ?世の中には人の気持ちをよく理解できない人種もいるもの」
「…そうなんですか?」
「ええ。光なんてその最たるものよ。あいつは昔から人の気持ちを理解するのが苦手だった。お陰で私はいつも泣かされてばかり」
瑞稀はどこか昔の事を思い出すように、目を細める。
「光さんが…?」
「えぇ。昔から人にあまり興味ないというか、何というか、どこか一線を引いててね。周りにいる男の子達と比べて変に落ち着いてた」
瑞稀はそういうと、再び湯呑みに口をつける。
「今でこそ、だいぶ大人になったけど、昔は結構なんでもズバズバ言って人を傷つけてた。南雲さんとは正反対の人間よ」
瑞稀の話に類はラウンジでの光の態度を思い出す。確かにその片鱗は見え隠れしていたかもしれない。
「でもね、世の中ってそういうものなの。人の気持ちを全く理解できない人もいれば、理解できすぎる人もいる。ほら、世の中って二元論っていうでしょ?朝があれば夜があって、光があれば闇がある。どちらか一つだけ存在するということは無理な話なのよ」
瑞稀の言葉に類は頷く。
「だからね、大事なのは自分を責めすぎないこと。自分は人と一緒にいると疲れちゃうって思うことに罪悪感を持たないこと。そして、疲れたらしっかり休むこと。これは人の気持ちを理解できないっていって悩んでる人にも言えること」
瑞稀は人差し指を立てて、再びウィンクをしてみせる。
「それは…、わかってはいるんですけど、なんか休むことが苦手というか、昔から罪悪感があって…」
類は困った様に眉根を下げる。昔からこの程度で疲れていていいのかと、自分の能力はこの程度なのかと、何故か疲れている自分を必要以上に責めてしまう癖が類にはあった。
「まぁ、その気持ちは私もよくわかるわ。商売柄休めない時もあるし、患者さんの方がもっと疲れてるのに私は休んでいいのかなって罪悪感に駆られる時もあるわ」
瑞稀は優しく微笑む。
「でもね、それって裏を返すと実は慢心なの。自分はもっと出来る。自分はすごいんだ。自分は休みなんか必要ないくらい強いんだ。って、勝手に驕り高ぶってる状態なの」
「慢心?」
意外な言葉に類は目を丸くする。
「そう。だから、大事なのは我慢しないこと。我慢しないっていうのは我儘になるという意味ではないの。我慢しないというのは自分を慢心しない事。自分を大事にしてあげる事」
瑞稀はそういうとにっこりと微笑んだ。
「我慢しない…、私自分がずっと頑張ってるって思ってました。けどそれって慢心だったんですね。だから、いつもしんどかった」
何かパッと目が覚めた様な感覚に類の心が僅かに軽くなる。
「頑張るって素敵な言葉だし、それを否定するつもりはないわ。でも頑張りすぎて何かしんどいなって思った時は一度自分を労ってみるってことも大事なのかもしれないわね」
瑞稀の言葉に類は頷く。
「こ、今度からはそうしてみます!」
「ええ、是非そうして頂戴」
さすが精神科医と言うべきか、瑞稀の優しい言葉一つ一つが類の凝り固まった何かを全て溶かしていった。
「まぁ、本当はこの話、光にも聞かせてやりたかったんだけど…」
「光さんに?」
「そう。あいつ昔からストイックすぎるところがあるから…、最近ちょっと心配なのよね」
瑞稀はどこか寂しそうに、湯呑みを見つめる。
「…瑞稀さんは、光さんとお付き合いされてたんですか?」
「え…、何でそう思うの?」
類の言葉に瑞稀は少し驚いた表情を見せる。
「す、すみません!…なんか、光さんの話をしてる瑞稀さんの表情がなんというか、優しげだったので…」
余計な事を言ってしまったと類は慌てて両手を左右にブンブンと振る。すると、瑞稀は「そんな慌てないで」と言ってクスクスと笑って見せた。
(やっぱり、綺麗な人…)
類は瑞稀の笑顔に釘付けになる。
「付き合ってたっていうか…、あれは実験ね」
「じ、実験?」
「そ。まぁ最初は確かに恋愛感情があったんだけど、光は全くそういうの興味なくてね。実験対象として付き合うならいいよ。とかふざけた事ぬかしてくれた訳」
瑞稀は少し苛立たしげに、当時の光について説明し始める。
「普通なら当然腹が立つはずだし、絶対有り得ないんだけど、何故かそう言う所にも惚れちゃった私は付き合ってみて大後悔」
「そ、そうだったんですか…」
瑞稀の意外な一面に類は遠慮気味に相槌を打つ。
「もう、酷いったらないのよ?会うたびに私に意地悪仕掛けてきて、そんで今のどんな風に思った?とか聞くワケ!信じられないでしょ?」
「まぁ、確かに…?」
なんだか、好きな女の子に素直に慣れない男子中学生のようである。
「それで腹が立ってある日言ってやったのよ、一日三秒でいいから人の気持ち考えなさいよ!って」
類は静かに頷く。
「そしたらあいつ、なんて言ったと思う?」
「…何て、言ったんですか?」
「つまんねぇ、女」
突然、瑞稀の背後から響いた第三者の声に瑞稀は慌てて声のする方へと振り返る。
すると、そこには不機嫌そうな表情を浮かべた光の姿があった。後ろには礼二が両手を合わせて二人に謝罪する様なポーズをとっている。
「ひ、光!あんた今日仕事で忙しいって…」
「どっかの誰かさんが俺の噂話をしてる様だったんで」
光はそう言うと、自身の背中を親指で指差す。
「あんた、まさか…」
その仕草に何かを察した瑞稀は自身の背中に手を伸ばす。
「瑞稀さん?」
どこか慌てた様子で背中から何かを剥がそうとする瑞稀に類は首を傾げる。
「式神を貼るのはもうやめるって昔約束したはずだけど?」
「あ?んな約束したかよ?」
「相変わらずクズね…昔から何も変わってない」
「そのクズにのぼせ上がってた女はどこのどいつだよ」
「本気で怒るわよ」
「おい!やめろお前ら!社(ここ)で喧嘩は禁止っつてんだろ!」
二人の不穏な空気を感じ取った礼二が慌てて二人の間に割って入る。
「瑞稀も、そろそろ病院戻んなきゃなんねぇ時間だろ…、それに、光はなんか用があってここに来たんじゃねぇのか?」
礼二はめんどくさそうに頭をガシガシと掻く。
瑞稀はそんな礼二の姿に溜め息を吐くと「そうだったわね…」と言って身支度を始める。
「南雲さん、ごめんなさいね。女子会はまた改めてやりましょ?」
瑞稀は再びウィンクしてみせると、光がきた廊下とは別の廊下から外へと出て行った。
光は暫く、瑞稀の後ろ姿を視線で追うと小さく溜め息を吐く。
「礼二」
「んだよ…」
「今の不味かった点をわかりやすく教えてくれる?」
「話の割り込み、言葉使い、喧嘩腰、あとは…、約束を忘れてること」
百点満点といった礼二の回答に類は「おぉ!」と目を輝かせる。
「俺はあんな約束した覚えはねぇぞ…」
光は少し不満そうに礼二を睨みつける。
「知るかよ!、ってかお前は女と約束結びすぎなんだよ。だから色々忘れてる…、俺との約束も偶に忘れてる時あるしな…」
礼二はフェミニストなんだか、そうじゃねんだか、わかんねぇよ。と文句を垂れる。しかし、光はどこ吹く風と言った様子で類の隣に腰掛ける。
「な、なんですか…?」
光の読めない行動に類は小さく身を引く。
「何?俺がここに座ったら駄目なの?」
「いえ、そういう訳じゃ…」
何だかいつも以上に不機嫌な光に類は表情を強張らせる。
(もしかして、瑞稀さんの事少し気にしてるのかな?)
仮にも昔付き合ってた人である。本当はもっと普通に話たかっただけなのかも知れない。
そう思うと、隣で礼二の入れたお茶を啜る光の姿が何故だか小さな少年の様に見えてしまった。
「何、一人で笑ってんだよ…」
「いえ、別に…」
何故が口元がニヤついてしまう類はそれを隠す様に湯呑みに口をつける。
「それより、お前、今日の夜暇?」
「え…、もしかしてお仕事ですか?」
光の言葉に類の表情が一気に凍りついた。
(誠君、大丈夫かな…?)
あの後、イジメの件について何も解決策を見出せなかった自分に罪悪感を感じる。せめてもう少し具体的なアドバイスができたら良かったのだろうが、生憎類はそんな言葉を持ち合わせて居ない。
(光さんに相談した方がいいのかしら…?)
誠は光のことを《優しい人》と言っていた。それが事実かどうか今のところ知る由は無いが、彼にとって光はかけがえのない存在であることは何となく理解ができた。
(うーん…、でも何て相談すれば)
いかんせん、とてもデリケートな悩みである。全くの部外者が顔を突っ込むのもいかがなものだろうかー。
もんもんと思考を巡らせながら、類は母屋の長い廊下を歩いていく。
大広間の横を通り過ぎようとした時、ふと視界の端あたりに誰かが写り込んだ。
(あれ?、誰か居る…?)
類はそのまま顔を横に向けると、広間に置かれた長机の前に座る可憐な女性と視線がぶつかった。
「こんにちは」
「こ、こんにちは!」
類は慌てて頭を下げる。すると女性は優しくにっこりと微笑んだ。
「貴方が、南雲類さん?」
女は優しく尋ねる。
「は、はい!私が南雲類です…!。えっと、貴方は?」
類も同じ様に名前を尋ねようとすると、台所から茶器を盆に乗せた礼二が姿を現した。
「おー。お前掃除終わったのか?」
「はい。一応全部…」
どこか戸惑い気味に答える類の姿に礼二は首を傾げる。
「んだよ、どうかした?」
「いや、その、そちらの方は?」
類の言わんとしてることをようやく理解したのか、礼二は「あー、そうだったな」と納得した様子で盆を机の上に置いた。
「こいつは、東京の国立病院に勤務してる久瀬瑞稀《くぜ みずき》先生。一応精神科医で今日はお前と面談する為に来てもらったんだ」
言ってなかったか?と頭を掻く礼二の姿に類は聞いていないです。と素直に答える。
「ごめんなさいね、南雲さん。こいつ昔からそういう奴なの。これからは光にお願いする事にするわ」
まるで昔から知っているかの様な口ぶりに、類は思わず「光さんともお知り合いなんですか?」と尋ねる。
「えぇ。よく知ってるわ。彼の能力の事もね」
瑞稀は可愛らしくウィンクをしながら答える。普通であれば少々痛い感じになるその行動も、何故か彼女にはとても自然な行動の一つに見えた。
「知り合いっつーか、幼馴染な。俺ら」
礼二はお茶を入れながらそう話を付け加えると、類に「お前も座れよ…」といって、瑞稀の席と向かい側の席に一つずつお茶を置いた。
類は素直に差し出されたお茶の前に座ると、少し緊張した面持ちで背筋を伸ばす。
「あら、そんなに固くならなくていいのよ。女子会みたいな感じでやりましょ?」
瑞稀はそう言うと高そうな鞄から一つの包み紙を取り出す。
「南雲さんは、羊羹とか好きかしら?」
「は、はい。時々食べます…」
実際はそこまで好きではないが、ここで自己主張できるほど世間知らずでもない。
「あら。よかったわ。じゃあこれ食べながら色々お話ししましょ?」
瑞稀は嬉しそうに包み紙を剥がすと、一つずつ個包装された羊羹を類に手渡す。それを合図に礼二は「じゃ、俺は女子じゃねぇんで…」といって台所へと姿を消した。
「さて。じゃあ早速面談件、女子会を始めましょうか♪」
瑞稀はパチンと両手を合わせると、可愛らしく「いただきます」と言って羊羹についたフィルムを剥がし始める。
「え、えっと…面談って、どういう経緯でそうなったんですか?」
飛び降りをしようとしていた事をあまり他人には知られたく無い類は言葉を濁しながら尋ねる。
「そりゃあ…、大仕事を終えた貴方のメンタル面が心配だ。って光が煩くてね」
瑞稀は羊羹を食べながら答える。
「光さんが…?」
「そ。そんで、精神科医である私がここに派遣されてきたわけ。貴方の精神状態がどうか確認する為にね♪」
瑞稀の話に類は昨晩の光を思い出す。
(心配してくれてるのかな…)
ふと、そんな考えが過ったが彼のことだ。きっと仕事の都合上、病んでしまっては困るという事なのだろう。
「で?光との初仕事どうだった?」
「どうって言われても…」
怖かったー。
この言葉一言に尽きる。
「怖かった?」
「はい。とても…」
「でも、貴方は生き延びた。それもあいつの力なしに」
瑞稀の言葉に類の瞳が揺れる。
「私…気がついたら知らない空間に居て…、なんか朧げにしか覚えていないんですけど…、誰かと話してて…、それで…」
類は昨晩の出来事を思い出そうとする。しかし、何かに邪魔される様に断片的にしかその記憶を思い出す事ができない。
「あまり、覚えてないのね」
「えぇ…、昨日までは何となく覚えてたんですけど…、何か今日は上手く思い出せません…」
類は瞳を伏せると、掌をギュッと握りしめる。
「別に鮮明に覚えてる必要なんて無いのよ。大事なのはその時貴方が何を感じていたか、恐怖の他に感じることはあったのかしら?」
瑞稀は、丁寧な所作で湯呑みに口をつける。
「…悲しい。ですかね」
「悲しい?」
「はい。悲しいです。後は怒りも感じました…」
類は俯いたままポツリ、ポツリと言葉を吐き出す。
「どうして、そう感じたのかしら?」
「それは…可哀想だと思ったからです」
「怨霊が?」
「はい…」
「じゃあ、怒りは?」
「何故、逃げ出さなかったのか、何故そんな男に執着していたのか」
「共感してしまったのね」
瑞稀の言葉に類は顔を上げる。
「多分、そうなんだと思います…。癖なんです。小さい頃からの。泣いてる人を見ると自分も悲しくなるんです」
類の話に瑞稀は頷く。
「その気持ちわかるわよ。自分事として捉えちゃうのよね?」
「はい…、だからいつも誰かと一緒にいると疲れてしまって…、家族でも酷く疲れてまうんです」
そう。どんなに仲良くなろうと、どんなに親切な人であろうと、何故かいつも疲れている。
「人の気持ちに敏感なのね…。でもそれって素晴らしいことよ?世の中には人の気持ちをよく理解できない人種もいるもの」
「…そうなんですか?」
「ええ。光なんてその最たるものよ。あいつは昔から人の気持ちを理解するのが苦手だった。お陰で私はいつも泣かされてばかり」
瑞稀はどこか昔の事を思い出すように、目を細める。
「光さんが…?」
「えぇ。昔から人にあまり興味ないというか、何というか、どこか一線を引いててね。周りにいる男の子達と比べて変に落ち着いてた」
瑞稀はそういうと、再び湯呑みに口をつける。
「今でこそ、だいぶ大人になったけど、昔は結構なんでもズバズバ言って人を傷つけてた。南雲さんとは正反対の人間よ」
瑞稀の話に類はラウンジでの光の態度を思い出す。確かにその片鱗は見え隠れしていたかもしれない。
「でもね、世の中ってそういうものなの。人の気持ちを全く理解できない人もいれば、理解できすぎる人もいる。ほら、世の中って二元論っていうでしょ?朝があれば夜があって、光があれば闇がある。どちらか一つだけ存在するということは無理な話なのよ」
瑞稀の言葉に類は頷く。
「だからね、大事なのは自分を責めすぎないこと。自分は人と一緒にいると疲れちゃうって思うことに罪悪感を持たないこと。そして、疲れたらしっかり休むこと。これは人の気持ちを理解できないっていって悩んでる人にも言えること」
瑞稀は人差し指を立てて、再びウィンクをしてみせる。
「それは…、わかってはいるんですけど、なんか休むことが苦手というか、昔から罪悪感があって…」
類は困った様に眉根を下げる。昔からこの程度で疲れていていいのかと、自分の能力はこの程度なのかと、何故か疲れている自分を必要以上に責めてしまう癖が類にはあった。
「まぁ、その気持ちは私もよくわかるわ。商売柄休めない時もあるし、患者さんの方がもっと疲れてるのに私は休んでいいのかなって罪悪感に駆られる時もあるわ」
瑞稀は優しく微笑む。
「でもね、それって裏を返すと実は慢心なの。自分はもっと出来る。自分はすごいんだ。自分は休みなんか必要ないくらい強いんだ。って、勝手に驕り高ぶってる状態なの」
「慢心?」
意外な言葉に類は目を丸くする。
「そう。だから、大事なのは我慢しないこと。我慢しないっていうのは我儘になるという意味ではないの。我慢しないというのは自分を慢心しない事。自分を大事にしてあげる事」
瑞稀はそういうとにっこりと微笑んだ。
「我慢しない…、私自分がずっと頑張ってるって思ってました。けどそれって慢心だったんですね。だから、いつもしんどかった」
何かパッと目が覚めた様な感覚に類の心が僅かに軽くなる。
「頑張るって素敵な言葉だし、それを否定するつもりはないわ。でも頑張りすぎて何かしんどいなって思った時は一度自分を労ってみるってことも大事なのかもしれないわね」
瑞稀の言葉に類は頷く。
「こ、今度からはそうしてみます!」
「ええ、是非そうして頂戴」
さすが精神科医と言うべきか、瑞稀の優しい言葉一つ一つが類の凝り固まった何かを全て溶かしていった。
「まぁ、本当はこの話、光にも聞かせてやりたかったんだけど…」
「光さんに?」
「そう。あいつ昔からストイックすぎるところがあるから…、最近ちょっと心配なのよね」
瑞稀はどこか寂しそうに、湯呑みを見つめる。
「…瑞稀さんは、光さんとお付き合いされてたんですか?」
「え…、何でそう思うの?」
類の言葉に瑞稀は少し驚いた表情を見せる。
「す、すみません!…なんか、光さんの話をしてる瑞稀さんの表情がなんというか、優しげだったので…」
余計な事を言ってしまったと類は慌てて両手を左右にブンブンと振る。すると、瑞稀は「そんな慌てないで」と言ってクスクスと笑って見せた。
(やっぱり、綺麗な人…)
類は瑞稀の笑顔に釘付けになる。
「付き合ってたっていうか…、あれは実験ね」
「じ、実験?」
「そ。まぁ最初は確かに恋愛感情があったんだけど、光は全くそういうの興味なくてね。実験対象として付き合うならいいよ。とかふざけた事ぬかしてくれた訳」
瑞稀は少し苛立たしげに、当時の光について説明し始める。
「普通なら当然腹が立つはずだし、絶対有り得ないんだけど、何故かそう言う所にも惚れちゃった私は付き合ってみて大後悔」
「そ、そうだったんですか…」
瑞稀の意外な一面に類は遠慮気味に相槌を打つ。
「もう、酷いったらないのよ?会うたびに私に意地悪仕掛けてきて、そんで今のどんな風に思った?とか聞くワケ!信じられないでしょ?」
「まぁ、確かに…?」
なんだか、好きな女の子に素直に慣れない男子中学生のようである。
「それで腹が立ってある日言ってやったのよ、一日三秒でいいから人の気持ち考えなさいよ!って」
類は静かに頷く。
「そしたらあいつ、なんて言ったと思う?」
「…何て、言ったんですか?」
「つまんねぇ、女」
突然、瑞稀の背後から響いた第三者の声に瑞稀は慌てて声のする方へと振り返る。
すると、そこには不機嫌そうな表情を浮かべた光の姿があった。後ろには礼二が両手を合わせて二人に謝罪する様なポーズをとっている。
「ひ、光!あんた今日仕事で忙しいって…」
「どっかの誰かさんが俺の噂話をしてる様だったんで」
光はそう言うと、自身の背中を親指で指差す。
「あんた、まさか…」
その仕草に何かを察した瑞稀は自身の背中に手を伸ばす。
「瑞稀さん?」
どこか慌てた様子で背中から何かを剥がそうとする瑞稀に類は首を傾げる。
「式神を貼るのはもうやめるって昔約束したはずだけど?」
「あ?んな約束したかよ?」
「相変わらずクズね…昔から何も変わってない」
「そのクズにのぼせ上がってた女はどこのどいつだよ」
「本気で怒るわよ」
「おい!やめろお前ら!社(ここ)で喧嘩は禁止っつてんだろ!」
二人の不穏な空気を感じ取った礼二が慌てて二人の間に割って入る。
「瑞稀も、そろそろ病院戻んなきゃなんねぇ時間だろ…、それに、光はなんか用があってここに来たんじゃねぇのか?」
礼二はめんどくさそうに頭をガシガシと掻く。
瑞稀はそんな礼二の姿に溜め息を吐くと「そうだったわね…」と言って身支度を始める。
「南雲さん、ごめんなさいね。女子会はまた改めてやりましょ?」
瑞稀は再びウィンクしてみせると、光がきた廊下とは別の廊下から外へと出て行った。
光は暫く、瑞稀の後ろ姿を視線で追うと小さく溜め息を吐く。
「礼二」
「んだよ…」
「今の不味かった点をわかりやすく教えてくれる?」
「話の割り込み、言葉使い、喧嘩腰、あとは…、約束を忘れてること」
百点満点といった礼二の回答に類は「おぉ!」と目を輝かせる。
「俺はあんな約束した覚えはねぇぞ…」
光は少し不満そうに礼二を睨みつける。
「知るかよ!、ってかお前は女と約束結びすぎなんだよ。だから色々忘れてる…、俺との約束も偶に忘れてる時あるしな…」
礼二はフェミニストなんだか、そうじゃねんだか、わかんねぇよ。と文句を垂れる。しかし、光はどこ吹く風と言った様子で類の隣に腰掛ける。
「な、なんですか…?」
光の読めない行動に類は小さく身を引く。
「何?俺がここに座ったら駄目なの?」
「いえ、そういう訳じゃ…」
何だかいつも以上に不機嫌な光に類は表情を強張らせる。
(もしかして、瑞稀さんの事少し気にしてるのかな?)
仮にも昔付き合ってた人である。本当はもっと普通に話たかっただけなのかも知れない。
そう思うと、隣で礼二の入れたお茶を啜る光の姿が何故だか小さな少年の様に見えてしまった。
「何、一人で笑ってんだよ…」
「いえ、別に…」
何故が口元がニヤついてしまう類はそれを隠す様に湯呑みに口をつける。
「それより、お前、今日の夜暇?」
「え…、もしかしてお仕事ですか?」
光の言葉に類の表情が一気に凍りついた。