失くしたあなたの物語、ここにあります
 表情を変えず、そう尋ねてくる。うわさを聞いていたからだろう。彼はあまり驚かなかった。

「悠馬はああ言ったけど、別に嫌いじゃないの。会ったことはないし。……ううん、会ったことはあるけど、もうずいぶん前だから顔も覚えてない」
「俺も知ってる人?」
「知ってるかも」
「そっか。もし、葵さんが嫌な思いするなら、その人がここに来たら教えるよ」
「私は大丈夫なの。嫌な思いするなら、悠馬の方」
「悠馬くん、高校一年生だっけ」

 そう確かめた天草さんは気づいただろう。悠馬は母の不倫が発覚したあとに生まれた子どもだということに。

「誰って、聞いたらダメかな」

 遠慮がちに天草さんは言う。沙代子を傷つけないようにと気をつかう彼の方が、苦しげな顔をしている。

「母ね、病院でパートしてたの」
「看護師さんだったね」
「相手はね、その勤務先の院長だよ。駅前にある小児科内科の」

 そう告白すると、天草さんは「はっ」と大きく息を吸い込んだ。

 院長はこの辺りで評判のいい名医だ。やっぱり、天草さんは知っているのだろう。

「この間、ルッカに行って気づいたの。父がいつも座ってたって天草さんが教えてくれた席から、宮寺内科がすごくよく見えるの」

 なぜ、洋菓子が好物なわけでもない父が、わざわざルッカのコーヒーを飲みに行っていたのか、沙代子はあの席から見える風景で悟ってしまった。

「銀一さんは宮寺院長に会いたがってた?」
「そこまではわからないけど、伝えたいことはあったのかも」
「伝えたいことって、悠馬くんの……」

 沙代子は無言でカウンターの中を進むと、本棚の前にしゃがみ込んだ。

「葵さん?」
「ねぇ、天草さんは知ってる?」

 沙代子が本棚の側面に触れると、彼もやってきて床にひざをついた。
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