失くしたあなたの物語、ここにあります
 彼が黙るから、沙代子は逃げ出したくなる。しかし、その気持ちをこらえて、わざと歩調をゆるめた。今日こそは、この気持ちに決着をつけないといけない。素直にね、と言った母に背中を押されてるような気分だ。

 しかし、何をどう切り出したらいいのかわからないまま、まろう堂のある通りに来ていた。

 分かれ道で立ち止まろうとすると、天草さんはあたりまえのように沙代子の自宅へつながる路地を進んでいく。

「謝らなくていいよ」

 ようやく彼が口を開くから、ほっとした。

「ううん、謝りたい。過去の恋を後悔させるなんてごめんなさい。私が別れた彼女だったら、そんなふうに言われたくないって思って。幸せだった過去まで否定されたくないよね」
「そうだね。俺も、ごめん」

 謝らなくていいのは彼の方なのに謝らせてしまった。

 申し訳なくなって、うつむいた。結局、今日もうまく気持ちを伝えられそうにない。

 それから無言のまま自宅に到着し、沙代子はようやく気を取り直して、玄関の前で彼を振り返る。

「今日はわざわざありがとう」
「俺が勝手に来ただけだから」
「今度、まろう堂に行くね」

 ドアに手を伸ばすと、「葵さん」と呼び止められる。天草さんがほんの少し思いつめたような目をしている。

「どうしたの?」
「そろそろ、返事もらえるかな?」
「えっと……」

 沙代子は戸惑ったが、彼が与えてくれたきっかけを無駄にしたくなくて、向き合う。

 気持ちを伝えてくれてから、どのぐらい待たせたのだろう。うやむやにしていた返事を、今なら言えるだろうか。
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