🍞 ブレッド 🍞 ~フィレンツェとニューヨークとパンと恋と夢と未来の物語~【新編集版】
 院内に入ると、そこには目を真っ赤にした奥さんと沈痛な表情を浮かべているルチオとアンドレアがいた。
 アントニオは救急治療室で点滴に繋がれて酸素マスクを付けられているという。

「大丈夫ですよ。絶対大丈夫ですから」

 長椅子に座っている奥さんの手を取ってしっかりするように励ますと、うんうんというように何度も頷いたが、声はまったく出てこなかった。
 その右隣に座るルチオは両手を組んでそれを前後に細かく動かしていて、「神様」という言葉が口から漏れると、十字を切って頭を垂れた。

 しばらくして顔を上げたルチオから「死ななくてよかった……」という安堵の声が漏れたが、それまで必死になって堪えていたであろう目から涙が零れた。
 それを見た途端、弦も耐えられなくなり、奥さんの手を握ったまま2本の筋が口まで流れ落ちた。

「でも、もう一度パンを作れるかどうか……」

 奥さんが苦悶の声を出した。
 運動麻痺や感覚麻痺がパン職人にとって致命傷になることは明らかで、その深刻さは弦にも容易に想像できた。

「もう無理かもしれない……」

 奥さんがアンドレアの肩に顔を付けて嗚咽を漏らすと、「大丈夫だよ。絶対大丈夫」と目を赤くしたアンドレアが肩を擦りながら自らに言い聞かすように呟いたが、それが楽観的なものであることは彼自身もわかっているようで、それからあとはどんな言葉も出てこなかった。

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