🍞 ブレッド 🍞 ~フィレンツェとニューヨークとパンと恋と夢と未来の物語~【新編集版】
「本気でパン職人になりたいと思っています」
「違う。アントニオの病気を見かねて言っているだけだ」
「そんなことはありません。本気でなりたいんです」
父親の敷いたレールの上を走るのではなく、自らの気持ちに正直に人生を歩みたいと訴えた。
しかし、「いや、そんなことはないはずだ。ユズルは嘘をついている」と即座に否定された。
それでも一歩も引かなかった。
「嘘はついていません。ハーバードで勉強するより、跡を継いで社長になるより、パン職人になる方がよっぽど幸せなんです」
「なんでそんなことがわかる」
「お客さんです」
「客?」
「そうです。お店に買いにくるお客さんはみんな幸せそうな顔をしています。それを見ているとこちらまで幸せになるんです」
「でもそれはスキンケア製品だって同じだろ」
「確かにそうです。製品を気に入っていただいたお客さんは笑顔になってくれます。しかし、スキンケア製品を作るのも売るのも僕ではないのです。僕は経営をするだけなのです」
するとルチオがウッというような感じになって、声が出てこなくなった。
「ここでアルバイトをするようになって、自分が作ったパンが店頭に並んで、それをお客さんが買ってくれて、おいしいと言ってくれて、ありがとうと言ってくれて、いっぱい笑顔を貰えるようになりました。これ以上幸せなことはないと思いました。これこそ自分が求めているものだと思うようになったんです」
ルチオは黙って聞いていたが、話を止めようとする気はないように思えたので、更に一歩踏み込んだ。
「それに、パン職人になるのは運命だと思うんです」
「運命?」
「そうです。すべては運命という名の手によって導かれているように思うんです」
同時多発テロの10年後に『911メモリアルミュージアム』でルチオと出会ったこと、そして再び出会いがあってベーカリーを訪れたこと、パン職人にはなんの関心もなかったのにアルバイトを始めてみるとはまっていったこと、今ではルチオをアメリカの祖父、アントニオと奥さんをアメリカの両親、アンドレアをアメリカの兄弟と思うようになったこと、そのすべてが運命によって導かれているように感じていることを伝えた。
「この広い世界の中で、800万人を超える大都市ニューヨークの中で、語学学校に通う日本人と移住してベーカリーを営むイタリア人が出会ったんですよ。これを運命と言わずしてなんと言えますか」
弦は胸に手を当てて祖父の写真を確かめた。
すると〈大丈夫だ〉という声が聞こえたような気がしたので、身を乗り出してルチオに迫った。
「それに僕には日本人の魂があります。それは武士道といってもいいかもしれません」
「武士道?」
「そうです、武士道です」
それが実際どういったものかよくわかってはいなかったが、それでもこれから伝える言葉に最もふさわしいと信じ込んでいた。
「こんな言葉を知っていますか?」
ルチオの目を真っすぐに見つめた。
「義を見てせざるは勇無きなり」
しかしルチオに日本語がわかるはずもないので、英語で繰り返した。
「If you see what is right and fail to act ON it, you lack courage」
するとルチオの口がそれをなぞるように動いたので、「人として為すべきことと知りながら、それを実行しないのは勇気がないからである」と敢えて日本語で言い、英語で繰り返した。
「目の前に困っている人がいるのに、それを放っておくことはできません」
自分でも驚くほど腹の座った声が出たと思ったら、一瞬にしてルチオの顔が崩れた。
それはダムが決壊した時のような崩れようで、張り詰めていた神経が一気に弛緩したような感じだった。
「支え合うのが家族です」
今度も驚くほど落ち着いた声が出たので「おじいちゃんと両親が困っているのに見捨てるわけにはいきません」と断固として言い切ろうとしたが、語尾が不意に揺れた。
「僕は……」
言いかけて嗚咽が覆った。
その瞬間、ルチオ以上に顔が崩れたと思った。
それにつられるようにルチオの顔が崩れたのでその手に触れると、感極まったものが弦の指先に落ちた。
顔を上げると、ルチオの顔が泣き笑いのようなものに変わっていた。
「違う。アントニオの病気を見かねて言っているだけだ」
「そんなことはありません。本気でなりたいんです」
父親の敷いたレールの上を走るのではなく、自らの気持ちに正直に人生を歩みたいと訴えた。
しかし、「いや、そんなことはないはずだ。ユズルは嘘をついている」と即座に否定された。
それでも一歩も引かなかった。
「嘘はついていません。ハーバードで勉強するより、跡を継いで社長になるより、パン職人になる方がよっぽど幸せなんです」
「なんでそんなことがわかる」
「お客さんです」
「客?」
「そうです。お店に買いにくるお客さんはみんな幸せそうな顔をしています。それを見ているとこちらまで幸せになるんです」
「でもそれはスキンケア製品だって同じだろ」
「確かにそうです。製品を気に入っていただいたお客さんは笑顔になってくれます。しかし、スキンケア製品を作るのも売るのも僕ではないのです。僕は経営をするだけなのです」
するとルチオがウッというような感じになって、声が出てこなくなった。
「ここでアルバイトをするようになって、自分が作ったパンが店頭に並んで、それをお客さんが買ってくれて、おいしいと言ってくれて、ありがとうと言ってくれて、いっぱい笑顔を貰えるようになりました。これ以上幸せなことはないと思いました。これこそ自分が求めているものだと思うようになったんです」
ルチオは黙って聞いていたが、話を止めようとする気はないように思えたので、更に一歩踏み込んだ。
「それに、パン職人になるのは運命だと思うんです」
「運命?」
「そうです。すべては運命という名の手によって導かれているように思うんです」
同時多発テロの10年後に『911メモリアルミュージアム』でルチオと出会ったこと、そして再び出会いがあってベーカリーを訪れたこと、パン職人にはなんの関心もなかったのにアルバイトを始めてみるとはまっていったこと、今ではルチオをアメリカの祖父、アントニオと奥さんをアメリカの両親、アンドレアをアメリカの兄弟と思うようになったこと、そのすべてが運命によって導かれているように感じていることを伝えた。
「この広い世界の中で、800万人を超える大都市ニューヨークの中で、語学学校に通う日本人と移住してベーカリーを営むイタリア人が出会ったんですよ。これを運命と言わずしてなんと言えますか」
弦は胸に手を当てて祖父の写真を確かめた。
すると〈大丈夫だ〉という声が聞こえたような気がしたので、身を乗り出してルチオに迫った。
「それに僕には日本人の魂があります。それは武士道といってもいいかもしれません」
「武士道?」
「そうです、武士道です」
それが実際どういったものかよくわかってはいなかったが、それでもこれから伝える言葉に最もふさわしいと信じ込んでいた。
「こんな言葉を知っていますか?」
ルチオの目を真っすぐに見つめた。
「義を見てせざるは勇無きなり」
しかしルチオに日本語がわかるはずもないので、英語で繰り返した。
「If you see what is right and fail to act ON it, you lack courage」
するとルチオの口がそれをなぞるように動いたので、「人として為すべきことと知りながら、それを実行しないのは勇気がないからである」と敢えて日本語で言い、英語で繰り返した。
「目の前に困っている人がいるのに、それを放っておくことはできません」
自分でも驚くほど腹の座った声が出たと思ったら、一瞬にしてルチオの顔が崩れた。
それはダムが決壊した時のような崩れようで、張り詰めていた神経が一気に弛緩したような感じだった。
「支え合うのが家族です」
今度も驚くほど落ち着いた声が出たので「おじいちゃんと両親が困っているのに見捨てるわけにはいきません」と断固として言い切ろうとしたが、語尾が不意に揺れた。
「僕は……」
言いかけて嗚咽が覆った。
その瞬間、ルチオ以上に顔が崩れたと思った。
それにつられるようにルチオの顔が崩れたのでその手に触れると、感極まったものが弦の指先に落ちた。
顔を上げると、ルチオの顔が泣き笑いのようなものに変わっていた。