魔力がないと見下されていた私は仮面で素顔を隠した伯爵と結婚することになりました〜さらに魔力石まで作り出せなんて、冗談じゃない〜
春の行事
「ヘルムートさん。レティシア様は今度いつこちらにお見えになるのかしら」
「それは、私では……ベルンハルト様にお尋ねになるとよろしいかと」
雪化粧をしていた周りの山も徐々に色を緑に変え、庭の花も彩り豊かに咲き始めた。草花を揺らす風はほんのり暖かくて、春の訪れを告げる。
その春の景色を見ながら、リーゼロッテはヘルムートの淹れたお茶を口にしながら、レティシアの動向を尋ねた。
「そうよね」
冬も終わろうとしていたあの日、庭で告げた本音を笑い飛ばしたレティシアは、そのまま姿を消した。
ヘルムートに頼んだお茶は二人分。見えない相手用に注がれたお茶を横目に、一人でお茶会をする羽目になった。
そこから既に一週間が経とうとしている。
レティシアはそもそも城に住んでいたわけではない。いなくなったからといって、それまでの生活と何も変わることはないのだけど。
最後に告げた本音は、もしかしたらレティシアを傷つけていたのではないかと、日にちが経てば経つほど気になり始めた。
「ベルンハルト様にお尋ねにはならないのですか?」
「ちょっと気になっただけなのよ。わざわざベルンハルト様にお伺いするほどのことではないの」
「奥様からお尋ねになれば、お喜びになると思いますが」
「そう? そしたらまた今度伺ってみようかしら」
「ぜひ」
ヘルムートの顔には穏やかな笑顔が浮かぶ。レティシアが山へ帰って、何の障害もなくなった二人は、既に結婚した夫婦とは思えない程ゆっくりと、それでいて着実にその距離を埋めていた。
その様子を城の者たちも温かく見守っていて、誰もが急かす必要も、無理をさせる必要もないと感じている。
和やかなロイスナーでの生活にリーゼロッテの心も穏やかで、王城にいた時には考えられないぐらいの優しさに包まれた毎日。
そんな日々を過ごしているのは、いつ以来だろうか。魔法が使えないと、見下され始めた頃から、リーゼロッテの前に訪れることのなかった日常。そうした時間はその心をくすぐる様に撫でながら、癒していった。
「リーゼロッテ、今、少しいいだろうか」
いつもと同じ言葉を扉の外からかけられる。
「はい。少しお待ちくださいませ」
リーゼロッテの返事も、既に何度も繰り返されたもので、この定型文のやり取りはリーゼロッテにとっての幸せな時間の開始を告げる合図。
そわそわと弾む気持ちを整えつつ扉を開ければ、隙のない笑顔を仮面の奥に貼り付けたベルンハルトが立っていた。
「ベルンハルト様。どうぞ、お入り下さい」
ベルンハルトのために大きく開いた扉から自室の中に進んでいく彼は、いつもの様にソファへとその身を預けた。
リーゼロッテは廊下を歩く使用人にお茶の用意を頼むと、当たり前の様にベルンハルトの隣へと腰かける。
リーゼロッテの部屋でのひと時は、定期的な決まりごとの様に繰り返されており、それでもまだこぶし一つ分の距離を開けて隣に座る。
その隙間は稀に小さくなって、二人の肩や脚を触れ合わせ、かと思えば次の瞬間にはまた大きくその空間を膨らませた。
「春の挨拶のことだが」
使用人によって用意されたお茶を飲んだベルンハルトが、ようやく部屋を訪ねた本題に入ろうとする。
「えぇ。いつですか?」
行きたくないと漏らしても、それを回避する手段はリーゼロッテには与えられておらず、あの嘲笑の溢れる場へとその身を置く時間は刻一刻と迫っていた。
それでもその場にはベルンハルトが着いていてくれるし、ロイスナーへと戻ればまたこの様に穏やかな時間が待つ。その未来は既に確信的な事実で、その時間を思い浮かべていれば、挨拶のための一日など、いくらでも耐えられると覚悟も決めた。
「三月の終わりだと、招待状が届いた」
「わかりました。準備、しておきますね」
その日まではそれほど時間もない。馬車で三日かかる旅。それなりの準備がいるだろう。
「いや、今回は私一人で行く」
「え?」
ベルンハルトから告げられた言葉はリーゼロッテが想像したこともないもので、ベルンハルトの言う言葉の意味が直ぐに理解できなかったのは仕方ないだろう。
「この春の挨拶は、私だけで行ってくる」
「どうしてですか?」
結婚した夫婦があの場所に独りで向かうなど、それこそ根も葉もない噂が立つに決まっている。
ただでさえあのような視線を投げられる場に、ベルンハルトが独りで行けば、それはさらに大きく酷いものになるだろう。
貴族の社交場の経験の少ないリーゼロッテですら簡単に想像できてしまう光景に、ベルンハルトが気がつかないわけがない。
そのうえでこの発言は、一体どういうことだろうか。
「貴女は、不慣れなロイスナーでの冬を超えるのに体調を崩したようだ。王都に比べ冷えるここでは、仕方のないこと。未だに体調が芳しくない貴女にとって、馬車で三日かかる旅は過酷なものだ。だから今回は私一人で行くことにした」
ベルンハルトの口から淀みなく伝えられた、まるで演劇の台本のような話。リーゼロッテの『行きたくない』という気持ちに応えるために用意された空物語。
「そのようなお話……」
誰が信じるだろうか。もし信じられたとしても、ベルンハルト独りであの場に行くことには変わりがない。
「二度目の冬では、このような話は通用しないだろう。今回限りで申し訳ないが、受け入れてもらえないか?」
受け入れたいのはリーゼロッテの方で、ベルンハルトが申し訳ないなどと言う筋合いはない。
ベルンハルトがリーゼロッテの為に用意した心遣いに、嬉しさで心が張り裂けそうだった。
「それは、私では……ベルンハルト様にお尋ねになるとよろしいかと」
雪化粧をしていた周りの山も徐々に色を緑に変え、庭の花も彩り豊かに咲き始めた。草花を揺らす風はほんのり暖かくて、春の訪れを告げる。
その春の景色を見ながら、リーゼロッテはヘルムートの淹れたお茶を口にしながら、レティシアの動向を尋ねた。
「そうよね」
冬も終わろうとしていたあの日、庭で告げた本音を笑い飛ばしたレティシアは、そのまま姿を消した。
ヘルムートに頼んだお茶は二人分。見えない相手用に注がれたお茶を横目に、一人でお茶会をする羽目になった。
そこから既に一週間が経とうとしている。
レティシアはそもそも城に住んでいたわけではない。いなくなったからといって、それまでの生活と何も変わることはないのだけど。
最後に告げた本音は、もしかしたらレティシアを傷つけていたのではないかと、日にちが経てば経つほど気になり始めた。
「ベルンハルト様にお尋ねにはならないのですか?」
「ちょっと気になっただけなのよ。わざわざベルンハルト様にお伺いするほどのことではないの」
「奥様からお尋ねになれば、お喜びになると思いますが」
「そう? そしたらまた今度伺ってみようかしら」
「ぜひ」
ヘルムートの顔には穏やかな笑顔が浮かぶ。レティシアが山へ帰って、何の障害もなくなった二人は、既に結婚した夫婦とは思えない程ゆっくりと、それでいて着実にその距離を埋めていた。
その様子を城の者たちも温かく見守っていて、誰もが急かす必要も、無理をさせる必要もないと感じている。
和やかなロイスナーでの生活にリーゼロッテの心も穏やかで、王城にいた時には考えられないぐらいの優しさに包まれた毎日。
そんな日々を過ごしているのは、いつ以来だろうか。魔法が使えないと、見下され始めた頃から、リーゼロッテの前に訪れることのなかった日常。そうした時間はその心をくすぐる様に撫でながら、癒していった。
「リーゼロッテ、今、少しいいだろうか」
いつもと同じ言葉を扉の外からかけられる。
「はい。少しお待ちくださいませ」
リーゼロッテの返事も、既に何度も繰り返されたもので、この定型文のやり取りはリーゼロッテにとっての幸せな時間の開始を告げる合図。
そわそわと弾む気持ちを整えつつ扉を開ければ、隙のない笑顔を仮面の奥に貼り付けたベルンハルトが立っていた。
「ベルンハルト様。どうぞ、お入り下さい」
ベルンハルトのために大きく開いた扉から自室の中に進んでいく彼は、いつもの様にソファへとその身を預けた。
リーゼロッテは廊下を歩く使用人にお茶の用意を頼むと、当たり前の様にベルンハルトの隣へと腰かける。
リーゼロッテの部屋でのひと時は、定期的な決まりごとの様に繰り返されており、それでもまだこぶし一つ分の距離を開けて隣に座る。
その隙間は稀に小さくなって、二人の肩や脚を触れ合わせ、かと思えば次の瞬間にはまた大きくその空間を膨らませた。
「春の挨拶のことだが」
使用人によって用意されたお茶を飲んだベルンハルトが、ようやく部屋を訪ねた本題に入ろうとする。
「えぇ。いつですか?」
行きたくないと漏らしても、それを回避する手段はリーゼロッテには与えられておらず、あの嘲笑の溢れる場へとその身を置く時間は刻一刻と迫っていた。
それでもその場にはベルンハルトが着いていてくれるし、ロイスナーへと戻ればまたこの様に穏やかな時間が待つ。その未来は既に確信的な事実で、その時間を思い浮かべていれば、挨拶のための一日など、いくらでも耐えられると覚悟も決めた。
「三月の終わりだと、招待状が届いた」
「わかりました。準備、しておきますね」
その日まではそれほど時間もない。馬車で三日かかる旅。それなりの準備がいるだろう。
「いや、今回は私一人で行く」
「え?」
ベルンハルトから告げられた言葉はリーゼロッテが想像したこともないもので、ベルンハルトの言う言葉の意味が直ぐに理解できなかったのは仕方ないだろう。
「この春の挨拶は、私だけで行ってくる」
「どうしてですか?」
結婚した夫婦があの場所に独りで向かうなど、それこそ根も葉もない噂が立つに決まっている。
ただでさえあのような視線を投げられる場に、ベルンハルトが独りで行けば、それはさらに大きく酷いものになるだろう。
貴族の社交場の経験の少ないリーゼロッテですら簡単に想像できてしまう光景に、ベルンハルトが気がつかないわけがない。
そのうえでこの発言は、一体どういうことだろうか。
「貴女は、不慣れなロイスナーでの冬を超えるのに体調を崩したようだ。王都に比べ冷えるここでは、仕方のないこと。未だに体調が芳しくない貴女にとって、馬車で三日かかる旅は過酷なものだ。だから今回は私一人で行くことにした」
ベルンハルトの口から淀みなく伝えられた、まるで演劇の台本のような話。リーゼロッテの『行きたくない』という気持ちに応えるために用意された空物語。
「そのようなお話……」
誰が信じるだろうか。もし信じられたとしても、ベルンハルト独りであの場に行くことには変わりがない。
「二度目の冬では、このような話は通用しないだろう。今回限りで申し訳ないが、受け入れてもらえないか?」
受け入れたいのはリーゼロッテの方で、ベルンハルトが申し訳ないなどと言う筋合いはない。
ベルンハルトがリーゼロッテの為に用意した心遣いに、嬉しさで心が張り裂けそうだった。