【連載中】エリート調香師は、初心な新妻を口説き落としたい。




 新居は、東京の都心にある高層マンションの一室だった。玲央が以前から住んでいた部屋に、心彩が入る形になった。三十階建ての二十七階。リビングの窓からは、東京の街が一望できる。昨夜は夜景が広がっていたその窓の外が、今は朝の光の中で輝いている。

 部屋は広く、整然としていた。

 余計なものが何もない。家具は少なく、でも一つ一つが質の高いものだと素人目にもわかる。装飾品の類はほとんどなく、唯一、リビングの棚に小さなガラスの器が一つだけ置いてあった。中に何も入っていない、ただのガラスの器。

 心彩はそのガラスの器をしばらく見た。

 何かを入れるためのものなのか、飾るためのものなのか。シンプルで、透明で、ただそこにある。玲央の持ち物の中で、唯一の「装飾らしいもの」が、何も入っていない空の器だというのが、なんとなくこの人らしい気がした。

 でも何がこの人らしいのか、まだよく知らないのだけれど。

 心彩は部屋着のまま、恐る恐るリビングへ出た。

 玲央はいた。

 キッチンに立って、何かをしている。心彩が気配を感じて足を止めたのと、玲央が振り返ったのが、ほぼ同時だった。

 玲央は心彩を見た。その表情は、昨日と変わらない。無表情、とは少し違う。ただ静かな、感情の起伏が表に出ない顔だ。

 しかし心彩が気づいたのは、玲央が今、スーツではなくシンプルな白いシャツと黒いパンツ姿だということだった。整えられてはいるが、仕事前の、素に近い状態。その姿が、昨日よりも少しだけ、人間らしく見えた。

 昨日の玲央は、結婚式では礼服を着て、背筋を伸ばして、どこかよそ行きの空気をまとっていた。
 今日の玲央は、自分の家にいるプライベートな彼。それがこんなにも印象を変えるのかと、心彩は少し驚いた。

 玲央がカウンターの上にあるものを指差した。

 見ると、メモが置いてあった。


『おはようございます。コーヒーと、トーストを作りました。食べられますか?』


 心彩は少し目を瞬いた。

 てっきり、朝は各自で、という生活になると思っていた。
 見知らぬ相手と突然同居を始めるのだ。距離を保ちながら、お互いのペースで暮らしていく――そういう形を想像していた。

 でも玲央は、朝食を作っていた。

 それも、心彩の分まで。

 心彩はメモを受け取り、ペンを探した。
 テーブルの上に、昨日とは別の新しいメモ帳とペンが置かれていた。玲央が用意したのだろう。昨日の見合いで使ったメモ帳とは違う、新しいもの。この家での筆談のために、用意してくれたのだと思うと、胸の中がじんわりとした。



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