【連載中】エリート調香師は、初心な新妻を口説き落としたい。




『ありがとうございます。いただきます』


 二人でテーブルに着いた。

 向かい合って座る、というのは少し緊張する配置だった。心彩は目のやり場に困りながら、コーヒーカップを両手で持った。一口飲む。

 苦い。でも、雑味がなくて、後味がきれいだった。

 心彩はカップを置き、メモに書いた。


『コーヒー、おいしいです。豆から挽いていらっしゃるんですか?』


 玲央は頷いて、書き返した。


『はい。香りが違うので』


 調香師らしい答えだと思った。

 豆から挽く、ということは、香りが変わるから。挽きたての香りと、粉になって時間が経った香りは、違う。それをわかっている人間の答えだ。

 心彩はもう一口、コーヒーを飲んだ。今度は意識して、香りを確かめながら。

 確かに、いい香りがした。苦さの奥に、少し甘みのある、深い香り。


『毎朝こうして作るんですか』

『休日は。平日は早く出るので、自分の分だけ』


 心彩は頷いた。それから少し考えてから、また書く。


『私のことは、気にしなくて大丈夫です。朝は自分で用意できます』


 遠慮ではなかった。本当に、迷惑をかけたくなかった。この人の生活のリズムを、できるだけ乱さないようにしたいと思っていた。

 玲央はその文字を読んで、少しの間があった後、書き返した。


『どうせ作るなら、二人分も同じです』


 それだけだった。

 心彩は、その返答を二度読んだ。

 どうせ作るなら、二人分も同じ。

 それは親切から来る言葉なのか、それとも効率の話をしているのか。玲央の文字は感情の色が薄くて、どちらとも読める。でも、なんとなく。

 遠慮するな、という言葉を、この人はこういう言い方をする気がした。

 心彩はトーストをひと口食べた。バターの染みた、きつね色に焼けたトースト。
 シンプルで、おいしかった。

 食べながら、心彩はそっとリビングを見渡した。

 昨夜は暗くてよく見えなかったものが、朝の光の中ではっきりと見える。棚の本は、専門書らしいものが多い。香りに関係する本だろうか。テレビは壁掛けで、大きいけれど、画面に埃は積もっていない。でもリモコンがすぐには見当たらない。あまり使わないのかもしれない。

 観察しながら食べていると、玲央がまたメモを書いた。


『何か、わからないことはありますか。家のことで』


 心彩は少し考えた。聞きたいことはいくらでもある。でも全部を今朝聞くのは気が引けた。


『たくさんあります。でも少しずつ聞いてもいいですか』

『もちろんです』


 短い返答だったが、その「もちろん」に、拒む気配が全くなかった。

 心彩は少し肩の力が抜けた。

 朝食を終えて、玲央が洗い物をしている間、心彩はリビングのソファに座ってメモ帳を開いた。

 今日聞きたいことを、書き出しておこうと思ったのだ。

 冷蔵庫の使い方や洗濯機の設定、ゴミの分別。
 インターホンの操作方法。――書いていくと、止まらなかった。知らないことが山ほどある。自分がどれほど、この家のことを何も知らないかを改めて実感して、少しだけ心細かった。

 でも玲央は「少しずつ聞いていい」と書いてくれた。

 それだけで、少し救われた気がした。

 玲央が洗い物を終えてリビングへ来た。着替えるのか、少しして寝室へ向かった。仕事の準備をしているのだろう。

 やがて、スーツ姿になった玲央がリビングへ戻ってきた。

 昨日とは別のスーツだった。紺色の、シンプルな一着。それでも着こなしが自然で、嫌みがない。長身に、スーツが似合う人だと思う。

 玲央は出かける前に短いメモを書いて、テーブルに置いた。


『夕方には戻ります。冷蔵庫に食材があります。昼は自由に使ってください。わからないことはメモに書いておいてくれれば、帰ってから答えます』


 心彩はそのメモを読んで、また少し目を瞠った。

 まるで先生か保護者のような言い方だ、と一瞬思ったが、実際問題として理にかなっていた。新しい家の中で、わからないことは無数にある。どこに何があるか、どう使えばいいか、どんなルールがあるか。
 それをいちいち玲央が帰るまで待てないこともあるが、わからないまま放置するのも落ち着かない。

 心彩はメモを折り畳んでポケットに入れた。

 玲央はそれを見届けて、頷いた。そして玄関へ向かった。

 心彩も立ち上がって、玄関まで見送りに行った。靴を履く玲央の横顔を、心彩はそっと見た。

 こういう時、普通の夫婦なら何か言葉を交わすのだろう。行ってらっしゃい、気をつけて、そういった言葉を。

 心彩はメモ帳を持っていなかった。手話をするには、玲央はまだ読めない。

 だから代わりに、小さく手を振った。玲央は振り返って、それを見た。

 一瞬だけ、何かを考えるような顔になった。そして小さく頷いて、扉を開けた。

 扉が閉まった。

 振動が、足の裏から伝わった。

 心彩は玄関に一人で立って、閉まった扉を見た。

 静かだった。いつも静かな世界だけれど、今日はいつもとは違う種類の静かさを感じた。

 午前中、心彩は部屋の中を少しずつ探索した。

 まずリビング。
 大きな窓、低いソファ、シンプルなテーブル。棚には最低限の本と、例のガラスの器だけ。

 テレビはあるが、あまり使われている形跡がない。リモコンを探すと、引き出しの中にしまってあった。やはり普段はあまり使わないのかもしれない。

 本棚の本を一冊抜き出してみた。香料の歴史について書かれた本で、専門書だが付箋がたくさん貼ってあった。
 読み込まれた跡がある。これは玲央が本当に好きで読んでいる本だと、すぐわかった。

 棚の本を一通り見ると、香り関係の本が多かったが、植物図鑑も何冊かあった。それから、意外なことに、詩集が一冊。

 心彩は詩集を手に取った。表紙は少し古びていて、誰かが長く持っていたものだとわかる。パラパラとめくると、いくつかのページの余白に、ごく小さな字で書き込みがあった。

 この花の香りを、と書いてあったり。これに似た匂いがある、と書いてあったり。

 読んだ詩から、香りを連想していた。

 心彩はそっと本を閉じて、棚に戻す。この人は、言葉を香りに変換して生きているのかもしれない、と何となく思った。

 次にキッチン。整然と並んだ調理器具。
 引き出しを少し開けてみると、きれいに整理されていた。調味料も、使いやすい順に並んでいた。醤油、みりん、料理酒、砂糖、塩。

 よく料理する人の並べ方だ。

 冷蔵庫を開けると、食材がきちんと揃っていた。野菜、肉、豆腐、卵。心彩が来ることを見越して、用意してくれていたのだろう。一人暮らしの冷蔵庫にしては、食材が多い。

 そして、廊下の奥に一つ、閉まっている扉があった。

 他の扉は、バスルーム、クローゼット、寝室と、昨日のうちに案内してもらっていた。しかしこの扉だけ、説明がなかった。

 心彩はその前で立ち止まった。

 廊下の一番奥にある扉。他の扉よりも少し古い木の素材で、取っ手が丸い形をしている。扉の下の隙間から、かすかに空気が流れている気がした。あるいは気のせいかもしれない。

 鍵はかかっていないようだった。ドアノブに手をかければ、開くかもしれない。

 でも。

 心彩は手を引いた。

 説明されていない部屋を、勝手に開けることはできない。たとえ夫婦でも、相手にはプライベートな空間があって当然だ。それに政略を目的として結婚したまだ出会って一ヶ月にも満たない相手との間では。

 鍵がかかっていないのは、禁じているわけではないからかもしれない。でも説明がなかったのは、まだその時ではないということかもしれない。

 心彩はその扉の前から離れ、代わりにリビングに戻った。

 持参したバッグから、スケッチブックを取り出す。心彩の習慣の一つで、気になるものを見たり感じたりした時、絵や文字で書き留める小さなノートだ。

 実家にいた頃から続けている習慣だった。耳が聞こえないから、日記を音声で残すことはできない。でも紙に書くことはできる。その日見たもの、感じたもの、考えたことを、文字と絵で書き留める。

 それが心彩にとっての、自分の記録の仕方だった。

 ソファに腰を下ろし、今日の朝のことを少しずつ書き留めた。

 コーヒーの味。白いシャツの玲央。どうせ作るなら二人分も同じ、という言葉。
 詩集の余白の書き込み。廊下の奥の、閉まった扉。

 それから、手を振った時に玲央が見せた、あの一瞬の顔。

 何かを考えるような顔。それが何だったのかは、わからなかった。でも確かに、何かがあった。

 書きながら、心彩は思った。

 この人のことを、もう少しずつ、知っていきたい。



< 17 / 23 >

この作品をシェア

pagetop