【連載中】エリート調香師は、初心な新妻を口説き落としたい。
玲央が帰ってきたのは、夕方の六時過ぎだった。
心彩はリビングで本を読んでいた。玲央が玄関を開けた時の振動で、誰かが入ってきたことを足の裏で感じた。
床を通じて伝わる振動は、心彩の大切な感覚の一つだった。音は聞こえなくても、振動は感じられる。ドアの開閉、足音、遠くの工事の音。それらが、振動として床から伝わってくる。
玲央の足音は、重すぎず、軽すぎない。規則正しい歩幅で、急いでいない。疲れているかどうかは、まだこの短期間ではわからなかった。
玲央はスーツのジャケットを脱ぎながらリビングに入ってきて、心彩を見た。
心彩は本を閉じて、小さく会釈した。
玲央も頷く。それからキッチンへ向かい、ネクタイを外しながら冷蔵庫を開けた。
何かを確認するようにしばらく中を見て、扉を閉める。そしてテーブルの上にあった心彩のメモ帳に手を伸ばした。
心彩が今日一日の間に書き溜めた質問が、そこにあった。
料理の際に使っていい調味料や、洗濯物のこと、ゴミの分別ルール、それから――マンションに花を飾ってもいいかどうか、スーパーの行き方とか。
玲央は立ったまま、一項目ずつ読んでいった。
表情は変わらない。でも読む速度が、途中で少し遅くなった。どこかで止まったのかもしれない。
やがて玲央はソファに腰を下ろして、ペンを取り、一項目ずつ丁寧に書いて答えた。
【洗濯物は自分がやるので置いといてもらって構わない。心彩が触れられたくないものはネットに入れておいてくれ】
【ゴミは月水金が可燃で、火木が不燃、資源は月一回ある。なるべく自分がやるから心配はしないでいい】
最後の質問、花を飾っていいかどうかへの返答は短かった。
【どうぞ。花瓶が棚の一番下の引き出しにあります。花は言ってくだされば手配します】
心彩はそれを読んで、ほっとした。花のない部屋は、心彩にとって少しだけ息が詰まる。
返事が「どうぞ」だったことよりも、「花瓶の場所を知っている」ということが、心彩には少し嬉しかった。玲央の家に花瓶があって、玲央がその場所を知っている。それだけのことなのに、花がこの家と無縁ではないのだと、そう思えた。
玲央がまた書き加えた。
【あなたさえよければ、俺が活けます】
心彩の手が、止まった。
玲央が、花を活ける?
心彩は思い切って書いた。
『華道をされるんですか? お父様と同じように諦めたと、伺っていましたが』
踏み込みすぎたかもしれない、と書いてから思った。でも送ってしまったものは取り返せない。
玲央はその文字を読んで、少しの間があった。
カウンターに肘をつき、返答を考えているようだった。
表情は変わらないが、目の焦点が少し遠くなった。過去のことを考えている顔だ、と心彩は思った。
やがて書いた文字は。
【習いました。真剣には続けてはいません。でも嗜むくらいなら出来る。】
続けていない、という言葉は、断念したとも、必要がなくなったとも読める。淡々とした文字だった。
それから少し間を置いて、もう一行。
【伯父の前では絶対に活けませんが】
最後の一文に、かすかな体温があった。
自嘲なのか、冗談なのか。玲央の文字は表情が読みにくい。でも心彩には、そこに照れのようなものが混じっているように感じられた。
月森郁斗という人の前では、花を活けない。伯父の前では「絶対に」という言葉を使うほど、それは揺るぎない。
それは敬意なのか、引け目なのか、あるいは別の何かなのか。
心彩はメモに書いた。
【一緒に活けましょう。私も多分下手ではないので】
少し大胆な誘いだったかもしれない。でも心彩には、玲央が花を活けるところを見たかった。
玲央は、その返答をしばらく見つめた。
読んでいるのか、考えているのか、判断するのに十分な時間を置いて。
そして。
【わかりました】
そう書かれていてなんだか嬉しく感じた。