【連載中】エリート調香師は、初心な新妻を口説き落としたい。
胸の奥がざわりとする。父に呼ばれる理由は……一つしか思い当たらなかった。
英紗家は、京都に本家を構える老舗の華道家元だ。
四百年の歴史を持ち、全国に三千を超える門弟を抱える名門の一つだ。心彩はその一人娘として生まれたが、生まれつき耳が聞こえないという理由で幼い頃から「家元を継ぐことはできない」と周囲にそして彼女自身にも言い聞かされてきた。
それでも、心彩は花が好きだった。
生けることも、育てることも、ただ眺めることも。花は彼女に何も要求しなかった。
美しさを損ねることも、不完全さを責めることも、何一つしなかった。だから好きだった。
父の書斎は廊下の突き当たりにある。心彩は板張りの廊下をそっと歩いた。足の裏に伝わる感触で、自分の歩幅と速度を測る。これも昔からの癖だった。
書斎の前で立ち止まり、軽くノックする。振動が手のひらから伝わった。
扉が開いた。
父の英紗宗一郎は、重厚な黒革の椅子に腰を下ろして心彩を見た。六十代になってもなお背筋の伸びた、厳格な顔立ちの男だった。お客様用のソファには見知らぬ男が一人座っていた。私を見ると立ち上がる。
五十代とおぼしき、白髪交じりの紳士。高級そうなスーツを着て、穏やかに微笑んでいる。
しかしその佇まいには、静かな強さがあった。
父が口を開く。心彩はすぐに唇の動きを追う。
「座りなさい」
心彩は頷いて向かいのソファに腰を下ろした瞬間、紳士も席に着いた。すると、父が改めて口を動かす。
「こちらは月森綾斗様。月森アロマ工房の創業者で、現社長だ」
心彩は小さく頭を下げた。
月森アロマ工房。その名前は心彩も知っていた。
香水や精油、アロマ関連製品を展開する急成長企業で、近年は海外にも積極的に進出している。
しかしそれ以上に心彩がその名を知っていたのは、別の理由からだった。