【連載中】エリート調香師は、初心な新妻を口説き落としたい。
心彩の手が、膝の上でかすかに震えた。来た。いつかの予感が、現実になった瞬間だった。
縁談の話は、以前から断片的に伝わってきていた。
英紗家の当主である父には、跡継ぎとなる息子がいなかった。心彩の兄は幼い頃に亡くなり、それ以来父は家のことを将来どうするかを考え続けてきたはずだ。
心彩が家元にはなれないと判断された理由は、聴覚障害だけではないかもしれない。
しかし当事者として、その理由を父に問い質したことは一度もなかった。問うことが、どこか怖かった。
答えを聞けば、自分の中の何かが崩れてしまうような気がして。
父が改めて口を動かす。隣に来た母が、手話で補いながら伝えてくれた。
「綾斗様の次男の玲央さんだ。現在は、二十九歳。月森アロマ工房の副社長と、調香師を兼務している」
月森綾斗が微笑みながら何かを言った。父がそれを受けて、心彩にゆっくりと伝える。
「うちの倅は、少々無口で不愛想なところがありますが、悪い人間ではありません、とのことだ」
父の目が、わずかに苦笑に近い色になった。息子を売り込む父親の台詞にしては、ずいぶん正直な前置きだと、心彩も思った。
心彩はゆっくりと手を動かした。手話だ。母が口話で父に伝える。
『お断りすることは、できますか』
父の顔が、わずかに曇った。
「心彩」
名前を呼ばれた。口の動きだけでも、その重さが伝わってくる。