【連載中】エリート調香師は、初心な新妻を口説き落としたい。
その言葉の奥に、長い時間が詰まっているような気がした。月森郁斗という、華道界に燦然と輝く兄を持つ綾斗が、それでも華道ではなくアロマの世界を選んだ理由。
それは心彩が踏み込めるような話ではなかったが、何かを感じさせる一言だった。
縁談の席を辞した後、心彩は自分の部屋に戻り、窓際に置かれた小さな花瓶の前に座った。中には今朝自分で生けた、小ぶりな芍薬が一輪。淡いピンクの花びらが、室内の光を受けてほんのり透き通って見える。
心彩はその花をしばらく眺めてから、そっと指先で花びらに触れた。柔らかくて、少し冷たい。
心の中で、何かを決めようとしていた。
拒むことはできない。それはわかっている。でも、ただ流されるだけの自分でもいたくなかった。
相手がどんな人間か、せめて自分の目で確かめたい。
その一点だけを、心彩は心に決めた。
見合いは一週間後、都内のホテルで行われることになった。
英紗家は京都に本家があるが、心彩は東京の分家で育った。父が月森家との窓口として、こちらに来ていたのだ。
当日の朝、心彩は母に手伝ってもらいながら、淡いブルーグレーのワンピースに着替えた。
アクセサリーは最小限。耳が聞こえないことで、補聴器をつけるかどうか悩んだが、今日はつけないことにした。
補聴器をつけても音のすべてが聞き取れるわけではなく、かえって中途半端になる場合がある。それより、自分らしい状態で相手に会いたかった。
車でホテルへ向かう間、心彩はずっと窓の外を見ていた。
東京の街は、いつ見ても情報量が多い。看板、人、車、ビル。それらが音もなく流れていく景色は、心彩にとっては見慣れたものだったが、今日はそのすべてが、妙に遠く感じられた。