『46億年の記憶』 ~命、それは奇跡の旅路~   【新編集版】
 新はムカッとしたが、それでもなんとか気を静めて、「ご本人が禁煙されることを強くお勧めします。その上で、ご主人も一緒に禁煙していただくことを併せてお勧めします。もしそれができないとしても、せめて妊婦さんの前では吸わないようにしていただきたいのです。お腹にいる赤ちゃんのためにも今日から禁煙に取り組んでいただけないでしょうか」と伝えた。

 しかし、彼女はもう聞きたくないという顔で、「何を飲もうと何を吸おうと私たちの勝手なんだからほっといてよ」と吐き捨てた。

 その言い方にまたムカッとしたが、今度も気を静めて説得を続けた。
 但し、訴え方を変えるために、いま吸っている煙草を見せて欲しいと頼んだ。
 彼女は「なんで見せなきゃいけないの?」と嫌がったが、何度も求めると渋々バッグから取り出して差し出した。
 それを受け取った新は、箱に書かれている文字を指差しながら大きな声で読み上げた。
「たばこの煙は、あなたの周りの人、特に乳幼児、子供、お年寄りなどの健康に悪影響を及ぼします。喫煙の際には、周りの人の迷惑にならないように注意しましょう」

 しかし、これだけ言っても、それが? というような顔をしているだけだった。
 なんの変化もない彼女の反応にガッカリしたが、それでも新は諦めなかった。
 箱を裏返して記載されている箇所を指差し、同じように大きな声で読み上げた。
「妊娠中の喫煙は、胎児の発育障害や早産の原因の一つとなります。疫学的な推計によると、たばこを吸う妊婦は吸わない妊婦に比べて低出生体重の危険性が約2倍、早産の危険性が約3倍高くなります」

 そして、いくらなんでも今度はわかってくれただろうと期待して彼女の顔を見たが、「もういいでしょう。早く返してよ」と煙草を奪い返してバッグにしまい、「もう帰っていい?」と嫌そうな声を発した。

 努力は無に帰した。
 もう何を言っても無駄だと諦めるしかなかった。
 新は虚無感に包まれて診察を終えた。

       *

「自分の快楽を優先して胎児のことを後回しにする妊婦は出産後に育児放棄をする危険性があるし、そんな女性に育てられた子供は社会性全般の発達が未熟になる可能性もあるからなんとかわかってもらおうと必死になって説得したけど、ダメだった。唯我独尊(ゆいがどくそん)というか独りよがりな性格の患者には何を言っても無駄なんだよ」

 新の大きなため息がリビングルームに悲しい響きを残した。

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