『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
女(18歳の頃)
母の病気
母は2月生まれでした。
2月26日です。
誕生花はミモザでした。
だからか、母の誕生日にはいつもミモザの花が家中を飾っていました。溢れんばかりに生けられた花瓶を見て「どうしたの?」って訊いても、「うふふ」といつも誤魔化されました。今思えば、父のプレゼントだったのかもしれません。父が母に渡す場面は見たことがないのですけど。
18歳までは絵に描いたような幸せな家庭でした。裕福ではなかったけど、愛情と笑顔が溢れていました。わたしは世界で一番幸せな娘でした。
しかし、父の突然死で一変しました。家から愛情と笑顔が消え、失望と苦悩と暗闇が支配するようになりました。母は極端に口数が少なくなり、仮面を被ったような無表情が続きました。明らかに病的でした。一日中塞ぎ込んで、溜息ばかりついていました。近所の子供にピアノを教えることも止めてしまいました。
無収入になった我が家は一気に家計が苦しくなりました。貯金は200万円ほどしかありませんでしたし、死亡保険金は1,000万円しかありませんでした。それ以外には月10万円ちょっとの遺族年金が支給されるだけでした。その遺族年金は家賃で消えたので、毎月の生活費は貯金と保険金を取り崩していくしか方法がありませんでした。
お金以外にも心配なことがありました。母の様子がおかしいのです。不眠が続いているようでしたし、食事の量が明らかに減っていました。隅から隅まで読んでいた新聞を読まなくなりましたし、テレビで面白い番組をやっていても笑わなくなりました。化粧もしなくなりました。
心配になって図書館で医学書を読み漁って、母の症状とよく似た病気を探しました。すると、見つかりました。『うつ病』と記載されていました。原因の一つに〈家族や親しい人の死亡〉があると書かれていました。症状も原因もピッタリ母に当てはまりました。治療の項目を見ると、〈休養〉と〈薬物療法〉と〈カウンセリング〉と書いてありました。重症度別の症状と治療方針が書かれているところを読むと、放置して悪化すると自殺の危険性があると書いてありました。背筋が冷たくなりました。自殺の原因の二番目がうつ病とも書いてありました。一番目が経済困窮でした。読み終わった時、背筋が凍りつきました。
母をこのままにしておいてはいけないと思いました。病院に連れて行かなければならないと思いました。なので、どの診療科へ連れて行けばいいのか探しました。そのページを見つけると、そこには、精神科、神経科、心療内科の三つが書かれていました。
いきなり精神科は無理だと思いました。母が行きたがらないに違いないからです。神経科か心療内科のどちらかだと思いました。
自宅に戻って、該当する病医院を電話帳で探しました。近所は噂になるといけないから、少し離れた所にある病医院がいいと思って探しました。できれば女医さんがいいと思いましたが、どの施設も院長は男性医師だったので諦めて、広告に乗っている中から良さそうなところを探しました。
すると、『内科・神経科』を標榜するクリニックが目に留まりました。これなら警戒されずに連れて行けると思って、その施設に電話をかけました。ところが、完全予約制だと言われました。がっかりして電話を切りました。母の体調が良さそうな時にぱっと連れて行くことはできないからです。
無理だと諦めかけましたが、ふと、母の体調変化に好不調の波がはっきりしていることを思い出しました。それは天気と関係があるように思えました。天気が悪い日に母の調子が思わしくないのです。特に雨の日が最悪でした。どんよりとした曇りの日も同じでした。それに比べて晴れの日は幾分調子が良さそうでした。
急いで新聞の週間天気予報欄で晴れの日を探しました。5日後が快晴マークになっていました。躊躇わずにもう一度電話をして、予約を入れました。母の症状を伝えた上で、あることをお願いしました。
*
予約した日がやって来ました。
予報通り快晴でした。
思わずガッツポーズが出ました。
9時過ぎに母がだるそうな表情で起きてきましたが、昨日よりはかなりマシなように見えました。天気が影響しているのは間違いないようでした。母の好物のジャムトーストと目玉焼きを作って、一緒に食べました。母は半分ほど残しましたが、それをわたしが平らげて、食後に紅茶を入れました。たっぷりのミルクと砂糖を入れて甘めにしてあげると、おいしそうにすすっていました。わたしはストレートで飲みながら母の様子を見ていました。笑みは出なかったものの仮面でもなかったので、大丈夫かなって思って、話を切り出しました。
「ちょっと気になることがあって病院を予約しているんだけど付いてきてくれない?」
すると母は、ん? というような表情になりましたが、反応はそれだけでした。
「一人だと心配だから付いてきて欲しいの」
わたしは重ねて頼みました。
「そうね」
母の返事はそれだけでしたが、「初めての病院だから心配なの」と懇願すると、母はテーブルに左肘をついて、左手の上に顔を乗せて、「何が気になるの?」とけだるそうに言いました。「ちょっと……」と言うと、「そう」と言って眠そうな目でわたしの顔を撫でるように見ました。
「お願い」
わたしは顔の前で両手を合わせました。すると、「いいけど」と言って、右肘をついて、右顎を右手の上に乗せました。それからもう一度「いいけど」と言って、小さなあくびをしました。
*
母が着替えるのにとても時間がかかって焦りましたが、予約の1時間前にはなんとか家を出ることができました。
最寄り駅から二つ目の駅で降りて、ロータリーを超えて、二つ目の信号を右に曲がりました。すると、二つ目の角に看板が見えました。
『内科・神経科クリニック』
母を待合室に座らせて、受付を済ませました。問診表には母の名前と症状を書きました。母の横に座って、呼ばれるのを待ちました。
15分後、名前を呼ばれました。わたしの名前でした。二人で診察室に入って、椅子に座りました。
院長は丸顔で小太りの男性医師でした。60歳くらいだと思いました。その横には神経質そうな中年の女性看護師が立っていました。
診察が始まると、〈悩み〉や〈症状〉、〈それがいつ頃から始まったのか〉や〈最近の環境の変化〉などについて質問されました。
わたしがそれに答えるにつれて母の表情が変わりました。わたしの横顔を信じられないといったような目で見ていました。自分とまったく同じ症状だと気づいたからだと思います。
「父が死んだことがまだ信じられません」
「切なくてたまりません」
「いつも疲れていて何もやる気が出ません」
「眠れない日が続いています」
「食欲はほとんどありません」
「なんにも興味がわきません」
わたしが話す度に母の顔が曇りました。そして、「会いたくてたまりません」「寂しくて寂しくて死にたくなります」と言った時には両手で顔を覆いました。「もっと優しくしてあげればよかった」と言った時には大粒の涙が零れ落ちました。それを見て、わたしも堪えられなくなりました。もう話せなくなりました。母と二人で涙を流しました。
「お辛かったですね」
黙ってわたしたちを見ていた医師が優しく声をかけてくれました。
「私も妻を亡くした時は死にたいと思いました」
医師が声を詰まらせた時、患者はわたしから母に替わりました。母は泉が湧きだすように次から次と辛い心内を吐露していったのです。涙を流しながら、鼻をすすりながら、肩と手を震わせながら、吐露していきました。
「よくわかります。私も一緒でした。本当によくわかります」
医師は涙を流しながら何度も何度も頷いていました。看護師も泣いていました。神経質そうに見えた彼女は温かい心の持ち主だったようです。
母が心内をすべて吐き出した時、「念のために簡単な検査をしましょうね」と医師が母に語りかけました。頷く母を見て、検査内容を看護師に指示しました。尿検査、血液検査、血圧、体重測定などの一般的な検査が行われました。その間、わたしは待合室で待っていました。
母が待合室に戻ってきて暫く待たされたあと、看護師がわたしを呼びに来ました。
ドキドキしながら診察室に入ると、「お母さんはうつ病と思われます。ご主人を突然亡くされた喪失体験が引き金となって発症したのだと思います」と告げられました。そして、病気の概要や治療方針、日常生活での注意点を説明されました。うつ病とはエネルギーが枯渇した状態であり、ガソリンが切れた自動車のようなものなので、それをよくわかってあげることが重要だと言われました。抗うつ薬による治療が必要なことや、ゆっくり休むことが必要なので、「頑張れ」とか「元気を出して」などと励ましてはいけないとも言われました。治癒するまでに数か月から数年かかることもあるので、完治を焦らないこと、何よりもお母さんのあるがままを受け入れてあげること、と念を押されました。
わたしはメモを取りながら一つ一つ頭に叩き込みました。そして、母を再び元気にしてあげたいと強く思いました。
でも、長い戦いに備えなければいけないとも思いました。これからは生活費だけでなく治療費もかかるからです。貯金と生命保険を合わせた1,200万円ほどはすぐに無くなってしまうに違いないので、家計を助けるためにアルバイトをしなければいけないと思いました。 それも、複数を掛け持ちする必要があると思いました。放課後にできるアルバイトと土日にできるアルバイトを探さなければならないと思いました。
*
翌週から母の通院が始まりました。最初の1か月は毎週でしたが、その後は2週間に一度になりました。症状が安定してきたら月1回になるとのことでした。
通院を重ねる度に母の表情に変化が出てきました。笑みが出るようになったのです。不眠の程度が軽くなっているようでしたし、食べる量も増えてきました。料理や後片づけはまだ無理でしたが、家の掃除ができるようになりました。通院前と比べると明らかに改善しているように見えました。
先生が親身になって話を聞いてくれるのが嬉しいようでした。母の話をひたすら聞いてくれるらしいのです。上から目線の説教はまったくなくて、母と同じ目線か下の目線で接してくれるらしいのです。いい先生に診てもらうことができて良かったと何度も聞かされました。
でも、わたしは母の話をきちんと聞くことができませんでした。アルバイトの掛け持ちで疲れ切っていたのです。学校では居眠りばかりしていたので、教師に注意されることが増えていました。
放課後のアルバイトはコンビニで17時から22時、土日のアルバイトはスーパーのレジ打ちで15時から20時でした。それだけでも結構きつかったのですが、平日は母の三食分を朝に作り置きし、土日も母の夜の分は昼食後に作り置きしなければなりませんでした。食器洗いと後片づけはバイトが終わってからやりました。体調が良い時には家事をしてくれるようになったので少しましになりましたが、わたしの毎日は常に時間に追われていました。それでも、母が少しずつ元気になっていくのを見るのが嬉しかったし、貯金からの持ち出しが少なくなったので、頑張ることが嫌ではありませんでした。
しかし、休みなく働き続けて3か月目の朝、体が動かなくなりました。意識ははっきりしているのに、体が動かないのです。誰かが上に乗っているような圧迫感を覚えて、呼吸が荒くなっていました。もしかして金縛りかもしれないと思って、母を呼ぼうとしましたが、声が出ませんでした。
暫くして落ち着いたので起きることができたのですが、体がとても重く感じました。その日は学校もバイトも休みました。病院に行こうかとも思いましたが、その気力がわかなかったので、家でごろごろしていました。心配した母が『内科・神経科クリニック』に電話をかけましたが、診察中なのであとでかけ直してくれるということになったようです。
夕方近くなって電話がありました。暫らく母が話したあと、わたしに替わりました。症状を伝えると、睡眠の取り方について質問されました。バイトから帰ると疲れ切っているので仮眠を取っていることを伝えました。すると、それが原因かもしれないと言われました。金縛りは正式には『睡眠麻痺』と呼ばれるものらしいのですが、睡眠の分断によって起こる可能性があるのだそうです。ちょっと寝て、少し起きて、また寝るということを繰り返すと起こりやすくなると言われました。正にわたしはそういう生活を3か月間続けていました。金縛りは癖になることがあるのかと訊いたら、同じ生活習慣を続けていたら二度三度と起こる可能性があると言われました。でも、帰宅後の仮眠を止めるわけにはいきません。止めたら体が持たないのはわかり切っていましたので、「生活習慣を見直します」と嘘をついて電話を切りました。
その後も時々金縛りに遭いました。かなりひどい時もありました。パニックになりそうな時もありました。でも、重い体をなんとか奮い立たせてバイトを続けました。バイトを止めたら生活が破綻するからです。母がもう一度働けるようになるまでは頑張らなければいけないと、18歳の若さと体力に頼って踏ん張り続けました。
*
母が治療を始めてから4か月が経った頃、通院が月1回になりました。表情はかなり明るくなりました。掃除に加えて、洗濯、食器洗い、後片づけができるようになりました。朝食のトーストと目玉焼きも作れるようになりました。昼ご飯も簡単なものを作って自分で食べてくれるようになりました。わたしの負担が少しずつ減っていきました。もう少しだと思いました。久々に希望の光を感じるようになりました。
その頃から母が週に二度外出するようになりました。それも決まって木曜日と土曜日でした。友人と会うためだと言っていましたが、帰りがわたしより遅い時もありました。その友人と夕食を共にしているらしいのですが、「誰と会っているの」と訊いてもいつもはぐらかされました。「お金は大丈夫なの」と訊いても「大丈夫」としか答えてくれませんでした。母には小遣いとして毎月1万円渡していましたが、月に8回も食事をすれば、それで足りるはずはありません。でも、小遣いをせびられることは一度もありませんでした。
鼻歌のようなものを口ずさむことが多くなりました。思い出し笑いをすることもありました。うつ病が確実に治ってきているとしても、母の変化は普通ではないように思いました。それが気になってはいましたが、いつも疲れていたので、母と向き合うよりも睡魔の誘いに従うしかありませんでした。
2月26日です。
誕生花はミモザでした。
だからか、母の誕生日にはいつもミモザの花が家中を飾っていました。溢れんばかりに生けられた花瓶を見て「どうしたの?」って訊いても、「うふふ」といつも誤魔化されました。今思えば、父のプレゼントだったのかもしれません。父が母に渡す場面は見たことがないのですけど。
18歳までは絵に描いたような幸せな家庭でした。裕福ではなかったけど、愛情と笑顔が溢れていました。わたしは世界で一番幸せな娘でした。
しかし、父の突然死で一変しました。家から愛情と笑顔が消え、失望と苦悩と暗闇が支配するようになりました。母は極端に口数が少なくなり、仮面を被ったような無表情が続きました。明らかに病的でした。一日中塞ぎ込んで、溜息ばかりついていました。近所の子供にピアノを教えることも止めてしまいました。
無収入になった我が家は一気に家計が苦しくなりました。貯金は200万円ほどしかありませんでしたし、死亡保険金は1,000万円しかありませんでした。それ以外には月10万円ちょっとの遺族年金が支給されるだけでした。その遺族年金は家賃で消えたので、毎月の生活費は貯金と保険金を取り崩していくしか方法がありませんでした。
お金以外にも心配なことがありました。母の様子がおかしいのです。不眠が続いているようでしたし、食事の量が明らかに減っていました。隅から隅まで読んでいた新聞を読まなくなりましたし、テレビで面白い番組をやっていても笑わなくなりました。化粧もしなくなりました。
心配になって図書館で医学書を読み漁って、母の症状とよく似た病気を探しました。すると、見つかりました。『うつ病』と記載されていました。原因の一つに〈家族や親しい人の死亡〉があると書かれていました。症状も原因もピッタリ母に当てはまりました。治療の項目を見ると、〈休養〉と〈薬物療法〉と〈カウンセリング〉と書いてありました。重症度別の症状と治療方針が書かれているところを読むと、放置して悪化すると自殺の危険性があると書いてありました。背筋が冷たくなりました。自殺の原因の二番目がうつ病とも書いてありました。一番目が経済困窮でした。読み終わった時、背筋が凍りつきました。
母をこのままにしておいてはいけないと思いました。病院に連れて行かなければならないと思いました。なので、どの診療科へ連れて行けばいいのか探しました。そのページを見つけると、そこには、精神科、神経科、心療内科の三つが書かれていました。
いきなり精神科は無理だと思いました。母が行きたがらないに違いないからです。神経科か心療内科のどちらかだと思いました。
自宅に戻って、該当する病医院を電話帳で探しました。近所は噂になるといけないから、少し離れた所にある病医院がいいと思って探しました。できれば女医さんがいいと思いましたが、どの施設も院長は男性医師だったので諦めて、広告に乗っている中から良さそうなところを探しました。
すると、『内科・神経科』を標榜するクリニックが目に留まりました。これなら警戒されずに連れて行けると思って、その施設に電話をかけました。ところが、完全予約制だと言われました。がっかりして電話を切りました。母の体調が良さそうな時にぱっと連れて行くことはできないからです。
無理だと諦めかけましたが、ふと、母の体調変化に好不調の波がはっきりしていることを思い出しました。それは天気と関係があるように思えました。天気が悪い日に母の調子が思わしくないのです。特に雨の日が最悪でした。どんよりとした曇りの日も同じでした。それに比べて晴れの日は幾分調子が良さそうでした。
急いで新聞の週間天気予報欄で晴れの日を探しました。5日後が快晴マークになっていました。躊躇わずにもう一度電話をして、予約を入れました。母の症状を伝えた上で、あることをお願いしました。
*
予約した日がやって来ました。
予報通り快晴でした。
思わずガッツポーズが出ました。
9時過ぎに母がだるそうな表情で起きてきましたが、昨日よりはかなりマシなように見えました。天気が影響しているのは間違いないようでした。母の好物のジャムトーストと目玉焼きを作って、一緒に食べました。母は半分ほど残しましたが、それをわたしが平らげて、食後に紅茶を入れました。たっぷりのミルクと砂糖を入れて甘めにしてあげると、おいしそうにすすっていました。わたしはストレートで飲みながら母の様子を見ていました。笑みは出なかったものの仮面でもなかったので、大丈夫かなって思って、話を切り出しました。
「ちょっと気になることがあって病院を予約しているんだけど付いてきてくれない?」
すると母は、ん? というような表情になりましたが、反応はそれだけでした。
「一人だと心配だから付いてきて欲しいの」
わたしは重ねて頼みました。
「そうね」
母の返事はそれだけでしたが、「初めての病院だから心配なの」と懇願すると、母はテーブルに左肘をついて、左手の上に顔を乗せて、「何が気になるの?」とけだるそうに言いました。「ちょっと……」と言うと、「そう」と言って眠そうな目でわたしの顔を撫でるように見ました。
「お願い」
わたしは顔の前で両手を合わせました。すると、「いいけど」と言って、右肘をついて、右顎を右手の上に乗せました。それからもう一度「いいけど」と言って、小さなあくびをしました。
*
母が着替えるのにとても時間がかかって焦りましたが、予約の1時間前にはなんとか家を出ることができました。
最寄り駅から二つ目の駅で降りて、ロータリーを超えて、二つ目の信号を右に曲がりました。すると、二つ目の角に看板が見えました。
『内科・神経科クリニック』
母を待合室に座らせて、受付を済ませました。問診表には母の名前と症状を書きました。母の横に座って、呼ばれるのを待ちました。
15分後、名前を呼ばれました。わたしの名前でした。二人で診察室に入って、椅子に座りました。
院長は丸顔で小太りの男性医師でした。60歳くらいだと思いました。その横には神経質そうな中年の女性看護師が立っていました。
診察が始まると、〈悩み〉や〈症状〉、〈それがいつ頃から始まったのか〉や〈最近の環境の変化〉などについて質問されました。
わたしがそれに答えるにつれて母の表情が変わりました。わたしの横顔を信じられないといったような目で見ていました。自分とまったく同じ症状だと気づいたからだと思います。
「父が死んだことがまだ信じられません」
「切なくてたまりません」
「いつも疲れていて何もやる気が出ません」
「眠れない日が続いています」
「食欲はほとんどありません」
「なんにも興味がわきません」
わたしが話す度に母の顔が曇りました。そして、「会いたくてたまりません」「寂しくて寂しくて死にたくなります」と言った時には両手で顔を覆いました。「もっと優しくしてあげればよかった」と言った時には大粒の涙が零れ落ちました。それを見て、わたしも堪えられなくなりました。もう話せなくなりました。母と二人で涙を流しました。
「お辛かったですね」
黙ってわたしたちを見ていた医師が優しく声をかけてくれました。
「私も妻を亡くした時は死にたいと思いました」
医師が声を詰まらせた時、患者はわたしから母に替わりました。母は泉が湧きだすように次から次と辛い心内を吐露していったのです。涙を流しながら、鼻をすすりながら、肩と手を震わせながら、吐露していきました。
「よくわかります。私も一緒でした。本当によくわかります」
医師は涙を流しながら何度も何度も頷いていました。看護師も泣いていました。神経質そうに見えた彼女は温かい心の持ち主だったようです。
母が心内をすべて吐き出した時、「念のために簡単な検査をしましょうね」と医師が母に語りかけました。頷く母を見て、検査内容を看護師に指示しました。尿検査、血液検査、血圧、体重測定などの一般的な検査が行われました。その間、わたしは待合室で待っていました。
母が待合室に戻ってきて暫く待たされたあと、看護師がわたしを呼びに来ました。
ドキドキしながら診察室に入ると、「お母さんはうつ病と思われます。ご主人を突然亡くされた喪失体験が引き金となって発症したのだと思います」と告げられました。そして、病気の概要や治療方針、日常生活での注意点を説明されました。うつ病とはエネルギーが枯渇した状態であり、ガソリンが切れた自動車のようなものなので、それをよくわかってあげることが重要だと言われました。抗うつ薬による治療が必要なことや、ゆっくり休むことが必要なので、「頑張れ」とか「元気を出して」などと励ましてはいけないとも言われました。治癒するまでに数か月から数年かかることもあるので、完治を焦らないこと、何よりもお母さんのあるがままを受け入れてあげること、と念を押されました。
わたしはメモを取りながら一つ一つ頭に叩き込みました。そして、母を再び元気にしてあげたいと強く思いました。
でも、長い戦いに備えなければいけないとも思いました。これからは生活費だけでなく治療費もかかるからです。貯金と生命保険を合わせた1,200万円ほどはすぐに無くなってしまうに違いないので、家計を助けるためにアルバイトをしなければいけないと思いました。 それも、複数を掛け持ちする必要があると思いました。放課後にできるアルバイトと土日にできるアルバイトを探さなければならないと思いました。
*
翌週から母の通院が始まりました。最初の1か月は毎週でしたが、その後は2週間に一度になりました。症状が安定してきたら月1回になるとのことでした。
通院を重ねる度に母の表情に変化が出てきました。笑みが出るようになったのです。不眠の程度が軽くなっているようでしたし、食べる量も増えてきました。料理や後片づけはまだ無理でしたが、家の掃除ができるようになりました。通院前と比べると明らかに改善しているように見えました。
先生が親身になって話を聞いてくれるのが嬉しいようでした。母の話をひたすら聞いてくれるらしいのです。上から目線の説教はまったくなくて、母と同じ目線か下の目線で接してくれるらしいのです。いい先生に診てもらうことができて良かったと何度も聞かされました。
でも、わたしは母の話をきちんと聞くことができませんでした。アルバイトの掛け持ちで疲れ切っていたのです。学校では居眠りばかりしていたので、教師に注意されることが増えていました。
放課後のアルバイトはコンビニで17時から22時、土日のアルバイトはスーパーのレジ打ちで15時から20時でした。それだけでも結構きつかったのですが、平日は母の三食分を朝に作り置きし、土日も母の夜の分は昼食後に作り置きしなければなりませんでした。食器洗いと後片づけはバイトが終わってからやりました。体調が良い時には家事をしてくれるようになったので少しましになりましたが、わたしの毎日は常に時間に追われていました。それでも、母が少しずつ元気になっていくのを見るのが嬉しかったし、貯金からの持ち出しが少なくなったので、頑張ることが嫌ではありませんでした。
しかし、休みなく働き続けて3か月目の朝、体が動かなくなりました。意識ははっきりしているのに、体が動かないのです。誰かが上に乗っているような圧迫感を覚えて、呼吸が荒くなっていました。もしかして金縛りかもしれないと思って、母を呼ぼうとしましたが、声が出ませんでした。
暫くして落ち着いたので起きることができたのですが、体がとても重く感じました。その日は学校もバイトも休みました。病院に行こうかとも思いましたが、その気力がわかなかったので、家でごろごろしていました。心配した母が『内科・神経科クリニック』に電話をかけましたが、診察中なのであとでかけ直してくれるということになったようです。
夕方近くなって電話がありました。暫らく母が話したあと、わたしに替わりました。症状を伝えると、睡眠の取り方について質問されました。バイトから帰ると疲れ切っているので仮眠を取っていることを伝えました。すると、それが原因かもしれないと言われました。金縛りは正式には『睡眠麻痺』と呼ばれるものらしいのですが、睡眠の分断によって起こる可能性があるのだそうです。ちょっと寝て、少し起きて、また寝るということを繰り返すと起こりやすくなると言われました。正にわたしはそういう生活を3か月間続けていました。金縛りは癖になることがあるのかと訊いたら、同じ生活習慣を続けていたら二度三度と起こる可能性があると言われました。でも、帰宅後の仮眠を止めるわけにはいきません。止めたら体が持たないのはわかり切っていましたので、「生活習慣を見直します」と嘘をついて電話を切りました。
その後も時々金縛りに遭いました。かなりひどい時もありました。パニックになりそうな時もありました。でも、重い体をなんとか奮い立たせてバイトを続けました。バイトを止めたら生活が破綻するからです。母がもう一度働けるようになるまでは頑張らなければいけないと、18歳の若さと体力に頼って踏ん張り続けました。
*
母が治療を始めてから4か月が経った頃、通院が月1回になりました。表情はかなり明るくなりました。掃除に加えて、洗濯、食器洗い、後片づけができるようになりました。朝食のトーストと目玉焼きも作れるようになりました。昼ご飯も簡単なものを作って自分で食べてくれるようになりました。わたしの負担が少しずつ減っていきました。もう少しだと思いました。久々に希望の光を感じるようになりました。
その頃から母が週に二度外出するようになりました。それも決まって木曜日と土曜日でした。友人と会うためだと言っていましたが、帰りがわたしより遅い時もありました。その友人と夕食を共にしているらしいのですが、「誰と会っているの」と訊いてもいつもはぐらかされました。「お金は大丈夫なの」と訊いても「大丈夫」としか答えてくれませんでした。母には小遣いとして毎月1万円渡していましたが、月に8回も食事をすれば、それで足りるはずはありません。でも、小遣いをせびられることは一度もありませんでした。
鼻歌のようなものを口ずさむことが多くなりました。思い出し笑いをすることもありました。うつ病が確実に治ってきているとしても、母の変化は普通ではないように思いました。それが気になってはいましたが、いつも疲れていたので、母と向き合うよりも睡魔の誘いに従うしかありませんでした。