『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
元には戻れない
秋が深まり、枯葉が道路を埋め始めた頃、母の表情に変化が現れました。何か悩んでいるような、戸惑っているような、おどおどしているような、そんな感じが見受けられるようになりました。わたしは一気に不安になりました。うつ病が悪化しているのかもしれないと思ったのです。うつ病は季節によっても影響を受けることがあると読んだことが蘇ってきました。冬場にだけ発症する場合もあるらしいし、秋から冬にかけて悪化する場合もあるらしいのです。病気ではない人でも日照時間が短くなる冬場は気分が落ち込みますから、病気の人は敏感に反応するのかもしれないと思いました。
心配になったので、すぐに受診するよう勧めたのですが、「大丈夫だから、心配いらないから」と言って相手にしてもらえませんでした。大丈夫じゃないから言っているのに、と思いましたが、首に縄を付けてクリニックに連れて行くわけにもいかず、気になりながらもそれ以上強く言うことはできませんでした。
それでも、母の観察だけは怠らないように気をつけていました。急変した場合、自殺する危険性があるからです。うつ病というのは恐ろしい病気なのだということを改めて自らに言い聞かせました。
それ以降、十分気をつけながら母を見ていましたが、冬の気配が強くなった頃、病気とはまったく関係ない酷い仕打ちが襲ってきました。
*
その日は手袋をしていてもジンジンするくらい寒かったことを覚えています。木枯らしが真正面から強く吹き付けていたので、コートの襟を立てて、前傾姿勢になって、バイト先から家に向かいました。
アパートが見えたと思ったら、窓には明かりがついていました。暗い部屋に帰ることが多い土曜日だったのですが、母が早く帰ってきたことに少しほっとしました。
チャイムを鳴らすと、ロックを解除する音がしたので、ドアを開けました。母が立っていました。でも、その顔は緊張しているように見えました。何かあったのかな、と思いながら中に入ると、知らない靴が目に入りました。男の靴でした。思わず身構えました。「誰?」と尋ねた声は掠れていました。母は何も答えず、居間の方に目をやりました。
部屋に入ると、男の背中が見えました。見覚えがある気がしました。ハッとして立ち止まると、男がゆっくりと振り向きました。知っている男でした。緊張したような表情で頭を下げましたが、何も言わずに顔を元に戻しました。わたしは男の正面に座りました。
「もしかして母の病気が……」
男は頭を振りました。
「では、どうしてここに……」
男は居住まいを正して、横に座る母の顔を見ました。母は緊張した面持ちで頷きました。男は頷き返して、ゴクンというように唾を飲み込みました。そして、信じられない言葉を発しました。
「お母さんにプロポーズしました」
頭が真っ白になりました。
瞬きができなくなりました。
呼吸が止まっている事に気づいて、大きく息を吐きました。
そして、息を吸い込みながら男の横に座る母を見ました。
母も瞬きをしていませんでした。
目を大きく見開いたままわたしに頷きました。
意味がわかりませんでした。
医師が患者にプロポーズ?
何それ?
わたしに隠れて何やってんの?
そんなこと許されるの?
お父さんを裏切っていいの?
どうなってんの?
そんなことがグルグル頭の中を回っていました。訳がわからなくなりましたが、それだけでなく、もっと酷いことを聞かされました。「お腹の中にね」と言ったのです。
わたしは両耳を塞いで、意味不明な声を出しながら部屋から飛び出しました。
気づいたら、通りを走っていました。つっかけのまま、コートも纏わず、泣きながら走っていました。
母が父以外の男に抱かれた?
母のお腹の中に父の遺伝子が入っていない妹か弟が宿った?
もう頭の中がぐちゃぐちゃになって、大きな声で叫んでいました。
イヤ~!
空気を切り裂くような声でした。
イヤ~~~!
この世から消えたくなりました。
そのあとのことはよく覚えていません。いつの間にか、公園の入口に立っていました。視線の先にはブランコがありました。近づいて両手でチェーンを掴み、ゆっくりと腰を下ろしました。
ブランコに乗るのは久し振りでした。いつ以来のことか思い出せませんでしたが、母がわたしを太腿の上に抱っこして漕いでくれたことが蘇ってきました。でも、それは記憶ではないのかもしれません。父が撮った写真をあとで見たことを記憶と勘違いしているだけかもしれないからです。そうだとしても、母の太腿が温かかったことを覚えているような気がしました。でも、その記憶らしきものはすぐに頭から消し去りました。
ブランコを後ろに引いて、そっと足を上げました。
わたしの体が前に行き、そして後ろに戻りました。
しかし、心は戻りませんでした。
木枯らしがどこかへ運んでいってしまったのだと思います。
突然、父の寂しそうな顔が浮かんできました。
ごめんなさい……、
謝ると、父の顔が消えました。入れ替わるように医師の顔と声が蘇ってきました。
「プロポーズしました」
続いて母の声が聞こえてきました。
「お腹の中にね、」
その声が耳の奥で反響を始めました。
止めて!
思わず両手で耳を押さえました。両手を放したわたしはバランスを取ることができなくなり、ブランコから落ちてしまいました。
地面が冷たかったことを覚えています。お尻から頭へ冷感が走ると、もうダメだと思いました。もう元には戻れないと思いました。
心配になったので、すぐに受診するよう勧めたのですが、「大丈夫だから、心配いらないから」と言って相手にしてもらえませんでした。大丈夫じゃないから言っているのに、と思いましたが、首に縄を付けてクリニックに連れて行くわけにもいかず、気になりながらもそれ以上強く言うことはできませんでした。
それでも、母の観察だけは怠らないように気をつけていました。急変した場合、自殺する危険性があるからです。うつ病というのは恐ろしい病気なのだということを改めて自らに言い聞かせました。
それ以降、十分気をつけながら母を見ていましたが、冬の気配が強くなった頃、病気とはまったく関係ない酷い仕打ちが襲ってきました。
*
その日は手袋をしていてもジンジンするくらい寒かったことを覚えています。木枯らしが真正面から強く吹き付けていたので、コートの襟を立てて、前傾姿勢になって、バイト先から家に向かいました。
アパートが見えたと思ったら、窓には明かりがついていました。暗い部屋に帰ることが多い土曜日だったのですが、母が早く帰ってきたことに少しほっとしました。
チャイムを鳴らすと、ロックを解除する音がしたので、ドアを開けました。母が立っていました。でも、その顔は緊張しているように見えました。何かあったのかな、と思いながら中に入ると、知らない靴が目に入りました。男の靴でした。思わず身構えました。「誰?」と尋ねた声は掠れていました。母は何も答えず、居間の方に目をやりました。
部屋に入ると、男の背中が見えました。見覚えがある気がしました。ハッとして立ち止まると、男がゆっくりと振り向きました。知っている男でした。緊張したような表情で頭を下げましたが、何も言わずに顔を元に戻しました。わたしは男の正面に座りました。
「もしかして母の病気が……」
男は頭を振りました。
「では、どうしてここに……」
男は居住まいを正して、横に座る母の顔を見ました。母は緊張した面持ちで頷きました。男は頷き返して、ゴクンというように唾を飲み込みました。そして、信じられない言葉を発しました。
「お母さんにプロポーズしました」
頭が真っ白になりました。
瞬きができなくなりました。
呼吸が止まっている事に気づいて、大きく息を吐きました。
そして、息を吸い込みながら男の横に座る母を見ました。
母も瞬きをしていませんでした。
目を大きく見開いたままわたしに頷きました。
意味がわかりませんでした。
医師が患者にプロポーズ?
何それ?
わたしに隠れて何やってんの?
そんなこと許されるの?
お父さんを裏切っていいの?
どうなってんの?
そんなことがグルグル頭の中を回っていました。訳がわからなくなりましたが、それだけでなく、もっと酷いことを聞かされました。「お腹の中にね」と言ったのです。
わたしは両耳を塞いで、意味不明な声を出しながら部屋から飛び出しました。
気づいたら、通りを走っていました。つっかけのまま、コートも纏わず、泣きながら走っていました。
母が父以外の男に抱かれた?
母のお腹の中に父の遺伝子が入っていない妹か弟が宿った?
もう頭の中がぐちゃぐちゃになって、大きな声で叫んでいました。
イヤ~!
空気を切り裂くような声でした。
イヤ~~~!
この世から消えたくなりました。
そのあとのことはよく覚えていません。いつの間にか、公園の入口に立っていました。視線の先にはブランコがありました。近づいて両手でチェーンを掴み、ゆっくりと腰を下ろしました。
ブランコに乗るのは久し振りでした。いつ以来のことか思い出せませんでしたが、母がわたしを太腿の上に抱っこして漕いでくれたことが蘇ってきました。でも、それは記憶ではないのかもしれません。父が撮った写真をあとで見たことを記憶と勘違いしているだけかもしれないからです。そうだとしても、母の太腿が温かかったことを覚えているような気がしました。でも、その記憶らしきものはすぐに頭から消し去りました。
ブランコを後ろに引いて、そっと足を上げました。
わたしの体が前に行き、そして後ろに戻りました。
しかし、心は戻りませんでした。
木枯らしがどこかへ運んでいってしまったのだと思います。
突然、父の寂しそうな顔が浮かんできました。
ごめんなさい……、
謝ると、父の顔が消えました。入れ替わるように医師の顔と声が蘇ってきました。
「プロポーズしました」
続いて母の声が聞こえてきました。
「お腹の中にね、」
その声が耳の奥で反響を始めました。
止めて!
思わず両手で耳を押さえました。両手を放したわたしはバランスを取ることができなくなり、ブランコから落ちてしまいました。
地面が冷たかったことを覚えています。お尻から頭へ冷感が走ると、もうダメだと思いました。もう元には戻れないと思いました。