『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
断絶
その日以来、その土曜日の夜以来、母とは口をきかなくなりました。高校に行く気が起らなくなりました。バイトも辞めました。もうどうでもよくなったのです。抜け殻のような時間をただ浪費するばかりでした。
12月も半ばになった頃、医師から手紙が来ました。正月休みが始まる12月30日に身内だけの結婚式を挙げて、その日の夜便でハワイに発ち、1月4日に帰ってくると書いてありました。わたしは吐き気を覚えて、その場で破り捨てました。
その翌日、1時間以上電車に乗って見知らぬ町へ行き、駅前で不動産会社を探しました。全部で4軒回りましたが、賃貸契約するには住民票と印鑑証明と連帯保証人が必要であることをどの店でも言われました。連帯保証人はいないと告げると、賃貸保証会社との契約が必要だと言われました。現在休職中で収入がないと伝えると、契約は難しいと言われました。それなら1年分前払いするからと言ったら、最後に訪ねた不動産会社だけが可能だという返事を返してきました。年内に入居可能な物件を3軒見て回り、その中から家賃6万円のシャワー付きアパートの1階を借りることに決めました。その翌日、市役所へ行って転出届を出しました。そして、転居に伴う諸々のことを片づけて行きました。
*
12月30日、夜明け前にそっと家を出ました。
当てもなくあちこちをぶらぶらしたあと、漫画喫茶で時間を潰しました。
コンビニで買ったサンドイッチをかじりながら時計と睨めっこを続けました。
21時30分になりました。
飛行機が成田を飛び立つ時間です。
もう一度時間を確認してから店を出て、家路を急ぎました。
*
明かりのついていないシンと静まり返った家に入ると、居間のテーブルに封筒が置いてあるのを見つけました。
母からでした。封を開けずに破り捨てました。
押入れから大きなスーツケースとバックパックを取り出して、先ず父の形見を入れました。
それから、服と身の回りの品を可能な限り詰め込みました。
貴重品をしまっている引き出しのカギを開けて、通帳を二つ取り出しました。
別の引き出しのカギを開けて、印鑑を二つ取り出しました。
それをショルダーバッグの内ポケットに入れて、ファスナーを締めました。
そして本棚からアルバムを取り出し、父とわたしが二人で写っている写真を全部抜き取りました。
母とわたしの二人だけの写真は全部破り捨てました。
三人で写っている写真は破ることができなかったので、そのままにしておきました。
夜が明けるのを待ってブレーカーを落とし、ガスの元栓を締めました。ドアに鍵をかけてから、きちんとしまっていることを確認して、ドアに組み込まれている郵便受けに鍵を放り込みました。カチャンと金属音がしました。
1時間以上電車に乗って、2週間前に来た駅で降り、駅前の銀行でお金を下ろしました。そのお金で敷金と礼金と手数料と火災保険料と1年分の家賃を前払いしました。それから、不動産屋の女性社員にアパートまで送ってもらって鍵を受け取り、一般的な注意を受けました。ガスは開栓済みになっているのですぐに使えるが、くれぐれも火の元には気をつけてと念を押されました。
部屋の中はがらんとして冷え切っていました。六畳間の窓には薄汚れた黄色のカーテンが、天井には古臭い丸型の照明器具が付いているだけでした。照明器具から垂れ下がっている紐を引っ張ると、ジーという音がして、暫くしてから点灯しました。よく見ると、蛍光灯の両端がかなり黒ずんでいたので、切れる寸前かもしれないと思いました。ショルダーバッグからメモとボールペンを出して、〈丸形蛍光灯を買うこと〉と書き込みました。
小さな台所にはガスコンロがありました。年代物のようでした。これも前に住んでいた人が残していったのだろうと思いました。古臭くて汚かったですが、それでもありがたかったです。生きていくために1円でも倹約しなければならないからです。
突然、お腹が鳴りました。家を出る時にコッペパンと牛乳をお腹に入れただけだったので、胃の中は空っぽになっていました。近くのコンビニでミネラルウォーターとラージサイズの即席カップ麺を買って、割りばしを貰い、店員に断ってポットからお湯を注いで4分待って、イートインスペースで蓋を開けました。湯気と共においしい香りが立ち上ってきました。人目も気にせず貪るように食べました。胃の中が温まると体もホカホカしてきて、少し元気が出てきました。ミネラルウォーターを一口飲んで、店を出ました。
商店街を歩いてみましたが、寂れた個人商店ばかりでした。年末の稼ぎ時なのにシャッターが下りている店も少なからずありました。若い人はあまり見かけなかったので、終わりかけている町かもしれないと思いました。
電器店を見つけたので中に入ると、店主と思われる年配の男性がわたしをじろりと見ました。とても感じが悪かったのですが、それを無視して暖房器具を探しました。でも、店が狭いせいか品数が少なかったし、予算より高い物しかなかったのですぐに出ました。
少し歩くと、リサイクルショップがありました。店先に小型の電気ストーブが置かれていました。特価と書かれてあったので、中に持って入って、コンセントを差してもらいました。
きちんとつきました。オレンジ色の灯りが温かく感じました。千円札を出して20円お釣りをもらいました。包装すると別途金がかかると言われたので、裸のまま抱えて持ち帰りました。
その夜は何も食べないで、ミネラルウォーターをちびちび飲んでやり過ごしました。部屋を閉め切っても電気ストーブだけでは寒かったのですが、インナーを重ね着して、コートを羽織って凌ぎました。
裏起毛のジーパンを履いてきて良かったと思いました。それでも足元が寒かったので、厚手の靴下を重ね履きしました。少し温かく感じるようになったせいか、膝を抱えたままの状態で何回かウトウトしました。でも、横になって寝ようとは思いませんでした。本格的に眠ると恐ろしい夢にうなされそうで怖かったからです。
*
夜が明けると年が変わっていました。でも、だからどうということはありませんでした。年が明けても、めでたいわけはないからです。
荷物を全部出して、空になったスーツケースを引きずって、昨日行ったコンビニへ向かいました。肉まん二つとホットコーヒーを買って、イートインスペースで食べました。肉まんを頬張ると、肉汁が口いっぱいに広がって、豚肉の旨味が味蕾を刺激しました。コーヒーを飲み終えると急に腸が動き出したので、店員に断って、トイレを借りました。体の中の悪いものがすべて出たような気がしました。
昨日電気ストーブを買ったリサイクルショップに行きました。元旦だから閉まっているかと思ったら開いていました。この商店街は3日まで営業して4日から7日まで休むのだと店主から聞いてホッとしました。助かったと思いました。
早速生活用品を買い揃えました。フライパン、鍋、包丁、俎板、フライ返し、栓抜き、はさみ、茶碗、皿、コップ、ドライヤー、どれも一番安いものを買って、スーツケースに入れました。
引きずるとガチャガチャと音がしましたが、まったく気になりませんでした。その足でスーパーマーケットに寄って、豚肉と野菜と醤油とサラダ油と特大サイズのミネラルウォーターとリンスインシャンプーとボディーソープとタオルと歯磨きと歯ブラシ、それから、食器用洗剤、そして、手洗い用の洗濯洗剤と物干しハンガーを買いました。これらをスーツケースに詰め込むと、ガチャガチャ音が小さくなったような気がしました。
部屋に戻ってスーツケースの中から今日買ったものを取り出して所定の場所に置くと、少し生活の匂いがしてきたような気がしました。
昼は水だけで我慢して、夜は豚肉とキャベツを炒めて食べました。ご飯がないので大盛りにして食べました。お腹いっぱいになると、睡魔が襲ってきました。でも、必死に堪えました。悪夢が怖かったからです。
突然、明かりが消えました。その後、すぐにジーという音がしてチカチカと点滅していましたが、暫くしてまた消えました。丸型の蛍光灯を買わなければいけなかったことを思い出しましたが、後の祭りでした。暗闇の中を恐る恐る這うように移動して、洗面台とトイレとシャワースペースが一体になっている部屋の明かりを点けました。
ドアを開け放つと、六畳間が少し明るくなりました。膝を抱えて朝までまんじりともせずに過ごしましたが、何もせずに目を開け続けているのは本当に辛かったです。死ぬかと思いました。それに、長かったです。時間が経つのがこんなに遅いとは思いませんでした。
外が明るくなってから、お湯を熱めにして、シャワーを浴びました。風邪をひかないように速攻で体を拭いて、服を着て、ドライヤーで髪を乾かしました。2日間寝ていませんでしたが、少し元気が出ました。
昨日の残りの豚肉とキャベツを炒めて食べて、食後に水をごくごくと飲むと、腸が動き出しました。夕食と朝食でキャベツを1個丸ごと食べた効果が現れたのか、するりとお出ましになり、爽快感に包まれました。食物繊維の威力は凄いと思いました。
その日はバックパックを背負って、スーツケースを引きずって、リサイクルショップへ行きました。ご飯が食べたかったから炊飯器を探しました。高機能製品が並んでいましたが、それには興味がありませんでした。シンプルで安いものでいいからです。そのことをお店の人に伝えると、奥の倉庫から小さな炊飯器を持ってきました。未使用の新古品で、値段は税込み2,940円でした。但し、二合炊きで保温機能は付いていないと言われました。でも、それで十分でした。お金を払うと、しゃもじと計量カップをおまけで付けてくれました。昨日たくさん買ってくれたから、そのお礼だと言われました。ニコニコしながらバックパックに炊飯器を入れてくれた中年のご主人とは友達になれそうな気がしました。この町でやっていけるかもしれない、そう思うと、少し気持ちが明るくなりました。
スーパーへ寄って、お米と卵と梅干と白菜の浅漬けを買ったあと、あの電器店へ行きました。本当は行きたくなかったのですが、他に電器店がなさそうなので仕方ありませんでした。
店に入ると、あの感じの悪い年配の店主が、またわたしをじろじろ見ました。丸型の蛍光灯が欲しいと言うと、発売されたばかりのLED蛍光灯を勧められました。そんな最新のものではなくて普通の安い蛍光灯が欲しいと言うと、LEDは10年持つからお得なんだと説教するように言われましたが、とにかく普通のものをくださいと言い返すと、ずり下がったメガネの上からいやらしい目でわたしの胸を舐めるように見ました。
とっさにコートの前を合わせてその視線をブロックしました。店主はチェッというふうに舌打ちして、棚から30型と32型がセットになった商品を取り出しました。1,470円だと言うので千円札1枚と五百円玉を1個渡しました。お釣りを手渡されそうになったので、いらないと言って、逃げるように店を出ました。スケベ爺が触った小銭を受け取るなんてまっぴらだと思ったからです。
部屋に戻って蛍光灯を付け替えようと照明に手を伸ばしたら、届きませんでした。その時、ふと気づきました。この部屋には机も椅子もないことを。途方に暮れましたが、今日も真っ暗な中で夜を過ごすなんて冗談じゃないと思って、急いでリサイクルショップへ引き返しました。
わたしの姿を見て、ご主人の顔が曇ったように見えました。「炊飯器、壊れていましたか?」と心配そうな声で尋ねられました。そうではないことを告げて事の顛末を話すと、ご主人が破顔しました。でも、すぐに真顔になって奥の倉庫に行き、正方形の小さなテーブルと椅子を二脚持ってきました。三品で税込み999円だと言われました。超安いので即決しましたが、持って帰ることができないことに気がつきました。困りましたがどうしようもないので、有料配達を頼もうと顔を向けた時、意外なことを言われました。タダで配達してあげるというのです。やっぱりいい人でした。言葉に甘えることにしました。
12月も半ばになった頃、医師から手紙が来ました。正月休みが始まる12月30日に身内だけの結婚式を挙げて、その日の夜便でハワイに発ち、1月4日に帰ってくると書いてありました。わたしは吐き気を覚えて、その場で破り捨てました。
その翌日、1時間以上電車に乗って見知らぬ町へ行き、駅前で不動産会社を探しました。全部で4軒回りましたが、賃貸契約するには住民票と印鑑証明と連帯保証人が必要であることをどの店でも言われました。連帯保証人はいないと告げると、賃貸保証会社との契約が必要だと言われました。現在休職中で収入がないと伝えると、契約は難しいと言われました。それなら1年分前払いするからと言ったら、最後に訪ねた不動産会社だけが可能だという返事を返してきました。年内に入居可能な物件を3軒見て回り、その中から家賃6万円のシャワー付きアパートの1階を借りることに決めました。その翌日、市役所へ行って転出届を出しました。そして、転居に伴う諸々のことを片づけて行きました。
*
12月30日、夜明け前にそっと家を出ました。
当てもなくあちこちをぶらぶらしたあと、漫画喫茶で時間を潰しました。
コンビニで買ったサンドイッチをかじりながら時計と睨めっこを続けました。
21時30分になりました。
飛行機が成田を飛び立つ時間です。
もう一度時間を確認してから店を出て、家路を急ぎました。
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明かりのついていないシンと静まり返った家に入ると、居間のテーブルに封筒が置いてあるのを見つけました。
母からでした。封を開けずに破り捨てました。
押入れから大きなスーツケースとバックパックを取り出して、先ず父の形見を入れました。
それから、服と身の回りの品を可能な限り詰め込みました。
貴重品をしまっている引き出しのカギを開けて、通帳を二つ取り出しました。
別の引き出しのカギを開けて、印鑑を二つ取り出しました。
それをショルダーバッグの内ポケットに入れて、ファスナーを締めました。
そして本棚からアルバムを取り出し、父とわたしが二人で写っている写真を全部抜き取りました。
母とわたしの二人だけの写真は全部破り捨てました。
三人で写っている写真は破ることができなかったので、そのままにしておきました。
夜が明けるのを待ってブレーカーを落とし、ガスの元栓を締めました。ドアに鍵をかけてから、きちんとしまっていることを確認して、ドアに組み込まれている郵便受けに鍵を放り込みました。カチャンと金属音がしました。
1時間以上電車に乗って、2週間前に来た駅で降り、駅前の銀行でお金を下ろしました。そのお金で敷金と礼金と手数料と火災保険料と1年分の家賃を前払いしました。それから、不動産屋の女性社員にアパートまで送ってもらって鍵を受け取り、一般的な注意を受けました。ガスは開栓済みになっているのですぐに使えるが、くれぐれも火の元には気をつけてと念を押されました。
部屋の中はがらんとして冷え切っていました。六畳間の窓には薄汚れた黄色のカーテンが、天井には古臭い丸型の照明器具が付いているだけでした。照明器具から垂れ下がっている紐を引っ張ると、ジーという音がして、暫くしてから点灯しました。よく見ると、蛍光灯の両端がかなり黒ずんでいたので、切れる寸前かもしれないと思いました。ショルダーバッグからメモとボールペンを出して、〈丸形蛍光灯を買うこと〉と書き込みました。
小さな台所にはガスコンロがありました。年代物のようでした。これも前に住んでいた人が残していったのだろうと思いました。古臭くて汚かったですが、それでもありがたかったです。生きていくために1円でも倹約しなければならないからです。
突然、お腹が鳴りました。家を出る時にコッペパンと牛乳をお腹に入れただけだったので、胃の中は空っぽになっていました。近くのコンビニでミネラルウォーターとラージサイズの即席カップ麺を買って、割りばしを貰い、店員に断ってポットからお湯を注いで4分待って、イートインスペースで蓋を開けました。湯気と共においしい香りが立ち上ってきました。人目も気にせず貪るように食べました。胃の中が温まると体もホカホカしてきて、少し元気が出てきました。ミネラルウォーターを一口飲んで、店を出ました。
商店街を歩いてみましたが、寂れた個人商店ばかりでした。年末の稼ぎ時なのにシャッターが下りている店も少なからずありました。若い人はあまり見かけなかったので、終わりかけている町かもしれないと思いました。
電器店を見つけたので中に入ると、店主と思われる年配の男性がわたしをじろりと見ました。とても感じが悪かったのですが、それを無視して暖房器具を探しました。でも、店が狭いせいか品数が少なかったし、予算より高い物しかなかったのですぐに出ました。
少し歩くと、リサイクルショップがありました。店先に小型の電気ストーブが置かれていました。特価と書かれてあったので、中に持って入って、コンセントを差してもらいました。
きちんとつきました。オレンジ色の灯りが温かく感じました。千円札を出して20円お釣りをもらいました。包装すると別途金がかかると言われたので、裸のまま抱えて持ち帰りました。
その夜は何も食べないで、ミネラルウォーターをちびちび飲んでやり過ごしました。部屋を閉め切っても電気ストーブだけでは寒かったのですが、インナーを重ね着して、コートを羽織って凌ぎました。
裏起毛のジーパンを履いてきて良かったと思いました。それでも足元が寒かったので、厚手の靴下を重ね履きしました。少し温かく感じるようになったせいか、膝を抱えたままの状態で何回かウトウトしました。でも、横になって寝ようとは思いませんでした。本格的に眠ると恐ろしい夢にうなされそうで怖かったからです。
*
夜が明けると年が変わっていました。でも、だからどうということはありませんでした。年が明けても、めでたいわけはないからです。
荷物を全部出して、空になったスーツケースを引きずって、昨日行ったコンビニへ向かいました。肉まん二つとホットコーヒーを買って、イートインスペースで食べました。肉まんを頬張ると、肉汁が口いっぱいに広がって、豚肉の旨味が味蕾を刺激しました。コーヒーを飲み終えると急に腸が動き出したので、店員に断って、トイレを借りました。体の中の悪いものがすべて出たような気がしました。
昨日電気ストーブを買ったリサイクルショップに行きました。元旦だから閉まっているかと思ったら開いていました。この商店街は3日まで営業して4日から7日まで休むのだと店主から聞いてホッとしました。助かったと思いました。
早速生活用品を買い揃えました。フライパン、鍋、包丁、俎板、フライ返し、栓抜き、はさみ、茶碗、皿、コップ、ドライヤー、どれも一番安いものを買って、スーツケースに入れました。
引きずるとガチャガチャと音がしましたが、まったく気になりませんでした。その足でスーパーマーケットに寄って、豚肉と野菜と醤油とサラダ油と特大サイズのミネラルウォーターとリンスインシャンプーとボディーソープとタオルと歯磨きと歯ブラシ、それから、食器用洗剤、そして、手洗い用の洗濯洗剤と物干しハンガーを買いました。これらをスーツケースに詰め込むと、ガチャガチャ音が小さくなったような気がしました。
部屋に戻ってスーツケースの中から今日買ったものを取り出して所定の場所に置くと、少し生活の匂いがしてきたような気がしました。
昼は水だけで我慢して、夜は豚肉とキャベツを炒めて食べました。ご飯がないので大盛りにして食べました。お腹いっぱいになると、睡魔が襲ってきました。でも、必死に堪えました。悪夢が怖かったからです。
突然、明かりが消えました。その後、すぐにジーという音がしてチカチカと点滅していましたが、暫くしてまた消えました。丸型の蛍光灯を買わなければいけなかったことを思い出しましたが、後の祭りでした。暗闇の中を恐る恐る這うように移動して、洗面台とトイレとシャワースペースが一体になっている部屋の明かりを点けました。
ドアを開け放つと、六畳間が少し明るくなりました。膝を抱えて朝までまんじりともせずに過ごしましたが、何もせずに目を開け続けているのは本当に辛かったです。死ぬかと思いました。それに、長かったです。時間が経つのがこんなに遅いとは思いませんでした。
外が明るくなってから、お湯を熱めにして、シャワーを浴びました。風邪をひかないように速攻で体を拭いて、服を着て、ドライヤーで髪を乾かしました。2日間寝ていませんでしたが、少し元気が出ました。
昨日の残りの豚肉とキャベツを炒めて食べて、食後に水をごくごくと飲むと、腸が動き出しました。夕食と朝食でキャベツを1個丸ごと食べた効果が現れたのか、するりとお出ましになり、爽快感に包まれました。食物繊維の威力は凄いと思いました。
その日はバックパックを背負って、スーツケースを引きずって、リサイクルショップへ行きました。ご飯が食べたかったから炊飯器を探しました。高機能製品が並んでいましたが、それには興味がありませんでした。シンプルで安いものでいいからです。そのことをお店の人に伝えると、奥の倉庫から小さな炊飯器を持ってきました。未使用の新古品で、値段は税込み2,940円でした。但し、二合炊きで保温機能は付いていないと言われました。でも、それで十分でした。お金を払うと、しゃもじと計量カップをおまけで付けてくれました。昨日たくさん買ってくれたから、そのお礼だと言われました。ニコニコしながらバックパックに炊飯器を入れてくれた中年のご主人とは友達になれそうな気がしました。この町でやっていけるかもしれない、そう思うと、少し気持ちが明るくなりました。
スーパーへ寄って、お米と卵と梅干と白菜の浅漬けを買ったあと、あの電器店へ行きました。本当は行きたくなかったのですが、他に電器店がなさそうなので仕方ありませんでした。
店に入ると、あの感じの悪い年配の店主が、またわたしをじろじろ見ました。丸型の蛍光灯が欲しいと言うと、発売されたばかりのLED蛍光灯を勧められました。そんな最新のものではなくて普通の安い蛍光灯が欲しいと言うと、LEDは10年持つからお得なんだと説教するように言われましたが、とにかく普通のものをくださいと言い返すと、ずり下がったメガネの上からいやらしい目でわたしの胸を舐めるように見ました。
とっさにコートの前を合わせてその視線をブロックしました。店主はチェッというふうに舌打ちして、棚から30型と32型がセットになった商品を取り出しました。1,470円だと言うので千円札1枚と五百円玉を1個渡しました。お釣りを手渡されそうになったので、いらないと言って、逃げるように店を出ました。スケベ爺が触った小銭を受け取るなんてまっぴらだと思ったからです。
部屋に戻って蛍光灯を付け替えようと照明に手を伸ばしたら、届きませんでした。その時、ふと気づきました。この部屋には机も椅子もないことを。途方に暮れましたが、今日も真っ暗な中で夜を過ごすなんて冗談じゃないと思って、急いでリサイクルショップへ引き返しました。
わたしの姿を見て、ご主人の顔が曇ったように見えました。「炊飯器、壊れていましたか?」と心配そうな声で尋ねられました。そうではないことを告げて事の顛末を話すと、ご主人が破顔しました。でも、すぐに真顔になって奥の倉庫に行き、正方形の小さなテーブルと椅子を二脚持ってきました。三品で税込み999円だと言われました。超安いので即決しましたが、持って帰ることができないことに気がつきました。困りましたがどうしようもないので、有料配達を頼もうと顔を向けた時、意外なことを言われました。タダで配達してあげるというのです。やっぱりいい人でした。言葉に甘えることにしました。