『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】

 グラスをテーブルに置き、スプーンを左手に持った。
 ビーフシチューをすくって口に運ぶと、思わず声が出た。

 うまい! 

 1日置いたせいで、味が濃厚かつ(・・)まろやかになり、旨味が増している。
 それに、牛肉の塊がホロッと解けて、噛まなくても溶けていく。
 すると、ワイングラスにせっつかれた。

 今だ、早く合わせろ! 

 一刻の猶予もないといったせっつき方だった。

 わかった、わかった。

 ワイングラスをなだめながらスプーンを置いて、左手を伸ばし、さっとスワリングをして、ひと口含んだ。

 ん~、合う! 
 最高のマリアージュ! 
 口福、至福、
 も~たまらん。

 思わず目を瞑って、暫し余韻に浸った。

 それからまたビーフシチューに戻り、平らげてしまうと、赤ワインはボトル半分になっていた。

 どうする? 

 ボトルに問いかけた。ボトルは何も言わなかったが、ワイングラスに(そそのか)された。

 飲んじゃえよ。

 そうだな、そうしよう。でも、ツマミがないな……、

 冷蔵庫にはチーズも何もなかった。どうしようかと思い悩んでいると、本棚から声が聞こえてきたような気がした。

 音楽を肴にして飲んだらいいんだよ。

 CDが唆しているようだった。

 なるほど、それもいいな。

 本棚のガラス扉を開けて、どのCDにするか物色した。すると、勢いよく手を上げるCDがいた。私を選びなさいというように。それはビリー・ジョエルの2枚組ベストアルバムだった。手に取って裏面を見た途端、最初の曲に目が止まった。『Piano Man』。彼のデビュー曲だった。

 CDをセットして再生ボタンを押した。ピアノのイントロに導かれてハーモニカの演奏が始まると、彼のハスキーヴォイスが静かに、そして、次第に力強く迫ってきた。男はリズムに乗って体を揺らした。歌声に酔いしれた。
 でも、それがいつまでも続くことはなかった。エンディングが訪れ、ピアノの音が静かに消えていった。それでも心は満ち足りていた。

 Piano Manに乾杯! 

 グラスを掲げると、シラーが舌を、喉を、心を満たしていった。

 初期のヒット曲が続いたあと、6曲目が始まった。男の大好きな曲、『The Stranger』だった。クリスタルのようなピアノのイントロに導かれて寂しげな口笛がメロディを奏でると、ふっとピアニストの姿が浮かんできた。哀しそうにピアノを弾いていた後姿が。

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