『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
女
わたしは誰?
わたしは誰??
わたしは誰???
問いかけても答えてくれる人はいない。
わたしはピアニスト。
ラウンジに目をやり、鍵盤の上に赤いキーカバーを被せながら呟いた。でも、誰からも拍手を貰えないピアニスト。小さな溜息と共に鍵盤の蓋を降ろし、ラウンジに一礼した。
わたしは誰?
ホテルを出てもう一度問うたが、その声を風がさらっていった。
わたしはピアニスト。
言い聞かせるように呟いた時、冷たい空気がうなじから忍び込んできた。急いでコートの襟を立てて首の前を閉じるようにしっかり合わせたが、寒さは消えなかった。心の中に寒風が吹いていた。冷たい風を防ぐコートの襟は心の中にはなかった。
最寄り駅に着いた。品川駅だった。夜9時を過ぎているのに駅の改札口は真昼のように明るく、群れのようになった人々がホームに向かって急いでいた。
女は温かさが欲しかった。だから、改札口を右手に見ながら港南口へ向かい、隣接する商業ビルに入った。
3階にあるこじんまりとしたコーヒーショップに入って、カウンターに座った。その途端、誰かの名前が呼ばれた。つられて店内を見回すと、若い女性が手を上げていた。すぐに店員がコーヒーを運んできた。この店は入店すると最初に注文と会計を済ませて、名前を登録する決まりになっているのだ。
少しして、女の名前が呼ばれた。
「ストレンジャー様」
手を上げると、隣に座る若い男性に顔をしげしげと見つめられたが、それに気付かぬふりをして、店員からカプチーノを受け取った。ラテアートが素敵だった。四つ葉のクローバーが浮かんでいた。
わたしは誰?
四つ葉のクローバーに問いかけた。しかし、クローバーは何も言ってくれなかった。
いいのよ、答えなくても。
それでも暫くクローバーを見つめていると、その姿が崩れ始めた時、囁くような声が聞こえた。
あなたはあなたよ。
女はクローバーが形を失っていくのをじっと見ていた。すると、跡形もなく消える寸前、遺言のような囁きが耳に届いた。
あなたはあなたよ。
女は静かに頷いた。
そうね、わたしはわたしね。
心の中が少し温かくなった。カップの取っ手をつまんで口に運ぶと、深煎りらしいビターな味がした。それがミルクと交じり合ってマイルドに変化し、優しい風味となって喉を通っていった。
あなたはあなたよ。
胃の中から声が聞こえた。すると、頭の中にあのメロディが浮かんできた。