『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
コーヒーショップを出て、電車に乗ってからもあの声が続いていた。
あなたはあなたよ。
それが心を温かくしてくれていた。でも、最寄り駅で降りて、真っすぐアパートに帰ると、誰もいない部屋は寒々と冷え切っていた。すぐに部屋の明かりを点け、電気ストーブのコンセントを差し、600Wにして手をかざした。
エアコンはあるのだが、光熱費を節約するために使用を控えている。誘惑に負けないように、リモコンは台所の一番上の棚に隠して、椅子に乗らないと取れない高さに仕舞っている。
少し暖かくなってきたので、服を着替えた。裏起毛の厚地スウェット上下の上にベンチコートを羽織った。野外スポーツ観戦用なので、とても温かい。でも、足元が寒かったので、厚手のハイソックスを2枚重ねて履いた。これで万全だ。女っぽさは欠片もないが、誰も見ていないからなんの問題もない。わたしはわたしだ。
台所に行って、小さな鍋に500mlの水を入れて火にかけてから、フライパンでモヤシとキャベツを炒めた。
鍋の水が沸騰してきたので、即席麺を入れて2分煮た。そして、生卵を入れて更に1分煮た。そこで火を止めて、添付のミソスープの素を入れて、卵が崩れないように慎重にかき混ぜた。
大きめの椀にラーメンと卵とつゆを移し、モヤシとキャベツを上に乗せた。夕食の完成だ。日雇いのような生活をしている女に1食100円以上お金をかける余裕はなかった。たまにはおいしいものを食べたいと思うこともあるが、無い袖を振ることはできない。それに、貧乏生活にはすっかり慣れたから、野菜と玉子付き味噌ラーメンで十分幸せな気持ちになれる。寒い冬に温かいものでお腹がいっぱいになれば、他には何もいらない。他人から見たら酷い食事だと思われるかもしれないが、そんなことは関係ない。わたしはわたしだ。
体の中から温かくなったので、電気ストーブを300Wに落として、タイマーを1時間にセットした。それから洗面所で化粧を落とし、スキンケアと歯磨きをしたあと、コンポにCDをセットして部屋の明かりを落とした。
豆電球がわたしを見つめていた。何か言いたそうだったので、「ありがとう。でも大丈夫。おやすみなさい」と声をかけて、リモコンの8番ボタンを押した。
コーヒーショップで頭に浮かんだメロディが部屋に流れてきた。『JUST THE WAY YOU ARE(素顔のままで)』。心の中にビリー・ジョエルの温かい歌声がしみ込んでくると、ビリーの声に重なるようにサックスの音色が聞こえてきた。グラミー賞を4度も獲得したフィル・ウッズの優しい音色だ。聴き惚れていると、今度はサックスの音に重なるようにビリーの歌声が戻ってきた。その優しい声に包まれながら、いつの間にか夢の中へ入っていった。