『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 翌朝、男は羽田から北海道に向かう飛行機の中にいた。目的地は札幌ではなく函館でもなく、釧路だ。北海道の東部に位置する人口16万人の拠点都市。市章には北極星があしらわれ、スズランが市の花になっている。雄大な自然の中に『釧路湿原』『摩周湖』『阿寒湖』『屈斜路(くっしゃろ)湖』があり、『タンチョウ』や『マリモ』に出会えるところでもある。水産業や酪農、林業が主要産業で、大規模な食品工場や製薬工場、製紙工場もある。1月の平均気温はマイナス5.4度で、最低気温はマイナス10 度を超える日もある。平均積雪量は44センチだ。
 
 そんな寒い所に観光客が行くのかって? 

 残念ながら多くはない。しかし、知る人ぞ知るという冬の釧路ならではの魅力が数多くあるのだ。それを掘り起こして発信できれば、新たな需要につなげることができる。男は気合を入れて釧路の地へ足を降ろした。

        *

 釧路駅から歩いて2分のところにあるビジネスホテルに向かった。いつも利用している宿泊料金がメチャ安いホテルだ。5,000円を切っているから申し分ない。もちろん税抜きだが、この値段でしかもツインとくれば、多少のことには目を瞑れる。弱小旅行代理店の経営者にとって、コスト以上に優先するものは何もない。それに、携帯型のWi-Fiを持ち歩いているので、セキュリティの心配をすることなく仕事ができる。
 
 部屋に入ると、いきなりお腹が鳴った。他のことはほっといて早く飯を食わせろ、と言わんばかりの催促だった。

 わかった、わかった。

 なだめていると、真っ先に浮かんだのは炉端焼きだった。しかし、これは夜に取っておくことにして、次に浮かんだ海鮮丼を目当てに『和商(わしょう)市場(いちば)』へ向かった。

        *

 釧路駅を背にして徒歩で10分の距離にある和商市場は、函館朝市や札幌二条市場と並んで北海道三大市場の一つに数えられる有名な市場だ。そこで食べる『勝手丼』を外すことはできない。市場内で購入したご飯の上に鮮魚店で買った刺身をトッピングして、自分流の丼を作ることができるようになっている。

 男はホームページにアップするために豪華な勝手丼をこしらえた。ウニ、イクラ、サーモン、ボタンエビ、そして、毛ガニ。贅沢過ぎる食材を溢れんばかりに盛り付けて、写真を撮った。
 それを画面で確認していると、見た人が涎を垂らす光景が浮かんできた。

 よし、大丈夫だ。

 カメラを置いて丼と箸を持つや否やウニとイクラと毛ガニを一緒にすくって口に入れた。
 すると、待ちかねていたように味蕾が踊り出した。

 ♪ 港祭りだ。イイッショ、イイッショ、釧路は最高! ♪ 

 胃に落ちたあとも踊りが続いた。

 ♪ イイッショ、イイッショ、釧路は最高! ♪ 

 男は丼を一気に掻き込んだ。

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