君が嘘に消えてしまう前に
ーーーー キーンコーンカーンコーン
練習に没頭していたのが、遠くで鳴るチャイムの音で現実に引き戻される。
鍵盤から目を離し、瀬川のほうに目を向けると同じように時間の経過に少し驚いた顔をした彼と目が合った。
「なんか最近さ、やけに練習時間過ぎるの早くない?」
「な、チャイムなるまであっという間」
顔を見合わせて同じような感想を言い合いながら、手早く譜面を畳みピアノのカバーを戻す。
その間に椅子においていたカバンを瀬川が持ってきてくれる。
相変わらず一挙手一投足まで周りのことを考えてるなあと感心しながら、彼の手から荷物を受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
いつのまにか、あんなに苦手だった相手なのにずいぶんと自然に会話できるようになった。
それはやっぱり、瀬川の根本が私とは違って善人だからだろう。
あの作り笑顔が取り払われたことで、胡散臭さがなくなって。よりその行為そのもののすごさが分かるようになった気がする。
まるで体に染みついたように、当然のように、彼は人を気にかけ人が傷つかない言動をとる。
それは、たとえ意識的でも大抵の人にはできないことで。それができる瀬川が純粋にすごいと思った。
まだ、瀬川の素顔はわからない。
私の前で見せる笑顔を取り払った姿が本当の素かは実際疑わしい。
でも、最近はどっちでもいいか、と思う。
素でも、素じゃなくても。隣が居心地のいいものであることは変わりないから。
二人で音楽室を後にし、長い廊下を歩く。廊下の突き当りにある窓から差し込んだ夕日に、影が二本、長く伸びていた。
会話はない。けれどそれは無理に沈黙を埋めようとしていない結果で、気まずいものではない。
いつものように昇降口で靴を履き替え、部活へ行く瀬川と別れる。
「じゃあ、またね」
「あー...いや、今日は俺もこっち」
ちょっと気まずげな表情をして、瀬川は私が向かおうとしていた校門のほうを指さした。
「部活は?」
「今日は休み。日曜が大会だったからその振替で」
「あ、そうなんだ。大会ってあの、レギュラーで出ることになった?」
「そうそれ。あれ、俺そのこと言ってたっけ」
「ううん、直接は聞いてないよ。けどあの声量で広野くんが言ってたから耳に入って」
「あー、そういえばそうだったな...、」
呆れたような口調でそうつぶやく瀬川に、わたしは小さく笑いをこぼした。
何気ない会話を交わしながら校門をくぐったところで、ふと我に返る。
もしかして、このまま並んで駅まで向かうのだろうか、と。
放課後の中途半端な時間とはいえ、他にもぱらぱらと下校している生徒がいる。
自意識過剰なのは分かっていても、視線が気になる。
それは、瀬川のことが好きだからとかそういう次元の話ではなくて。
...瀬川の隣を歩けるような外見も、中身も。
私は持ち合わせていないから。
最初に合唱祭の会議に一緒に向かった日を思い出す。
あの日も一緒には行ったけれど、並んで歩けずに数歩後ろを歩いていた。
でも今は、瀬川がいるのはすぐ隣。
歩く速さを遅めて後ろに下がろうかと考え、思い止まる。
流石に今さら隣から逃げるのは不自然だし、彼にとっても不愉快だろう。
校門から駅までの坂道を下っていく。いつもと同じか帰り道なのに、駅までたどり着くのがあっという間な気がした。
さりげなく改札を譲られ、先に改札口を通り抜ける。
聞きなれた短い電子音が、今日はやけに機械的に聞こえた。
「じゃあ私、あっち方面だから」
改札口を通り抜けた瀬川を振り返り、今いるのとは反対側の人気のないホームを指さす。
この駅には県の中心部へ向かう電車と、それとは反対方面の、田舎側に向かって走る電車がある。
私が乗る電車は田舎側に向かって走る方で、放課後の中途半端な時間のせいもあって、生徒の姿はまばらだった。
私の言葉に、瀬川が一瞬目を見開く。
「どうしたの?」
「驚いたな、実は俺も同じ方向の電車なんだ」
彼はさっと表情を戻し、さらりと笑顔を浮かべた。
久々に自分に向けられた作り笑いに、瞬間、少し胸が痛む。
なんでだろう。
駅までの道はともかく、これだけ近くに人目があるんだから彼が表情を作るのは当たり前のことなのに。
「あ、そうなんだ。今まで全然気づかなかった」
ちくりと痛んだ胸を誤魔化すように言葉を返すけれど、返事がわざとらしくなっている気がして仕方がない。
会話が途切れて、どことなく気まずい空気が流れ始める。
『ーーまもなく2番ホームに電車がまいります。危ないですから、点字ブロックの内側でお待ちくださいーー』
「っいそご」
よかった、タイミングよくアナウンスが流れて。
沈黙が終わったことに安堵しながら、反対ホームに行くために連絡橋を駆け足で上り、手すりを掴みながら駆け降りていく。
ホームに止まった電車の一番近くにあった入り口から車内に二人滑り込んだ。
久しぶりに走ったから、少し息苦しい。
膝に手をつき、はあはあと息を整える私とは対照的に、瀬川は息を乱す様子もなく車内をぐるりと見回していた。
流石サッカー部のレギュラー、体力あるなぁ。
「大丈夫か?」
「…平気、瀬川は流石体力あるね」
上から瀬川の声が降ってきて、一度大きく深呼吸してから言葉を返す。
顔を上げれば、無表情に近いけどよく見れば少し眉の下がった彼がこちらを覗き込んでいる。
表情からは分かりにくいけど、心配してくれているのが分かった。
心地よい音を立ててゆっくりと電車が走り出す。
だんだんとホームも、そこに立つ生徒たちも遠ざかって、景色が住宅街へと移り変わる。
車内は空いていて、座席もいくつか空きがあった。
けれどどちらも座ろうとは言い出さなくて、ドアのすぐ横のシートの背側に立ったままもたれかかる。
「俺は橋田駅までだけど、そっちは?」
「私はもう一個先の波川駅。じゃあ結構近くに住んでるんだね」
「な、…最寄りが波川駅なら中学は北桑田とか?」
「そう、詳しいね。瀬川は?」
「俺は東山中。学区ギリギリでさ、自転車だったから通学きつかったな」
「うわ、体力つきそう…私なんか徒歩5分とかだったから楽だったけど」
「普通に羨ましいわ」
他愛のない雑談。途切れない会話。
瀬川と言葉を交わしながら、こんなのいつぶりだろう、と心の中で思う。
いつも一人ぼっちで、暗くて、教室では空気で。
家でも学校でも、息を殺して過ごしてきた。
なのに今は、話してくれる相手がいる。
自分の話を否定せずに聞いてくれる人がいる。
それがどうしようもなく嬉しい。
…けど、分かってもいるのだ。こんな穏やかな時間が、一時的なものだってことくらい。
瀬川がこうして話してくれるのは、私が伴奏者で、裏の顔を知ってしまってて、クラスで浮いてるから。
彼にとって、’優等生”として、仲良くすべき相手だから。
きっと、伴奏者と指揮者という肩書きが消えたらクラスメート以下の関係になる。
仕方ない、当然のこと。
そう思うのに、今はその事実がなぜか悲しかった。
練習に没頭していたのが、遠くで鳴るチャイムの音で現実に引き戻される。
鍵盤から目を離し、瀬川のほうに目を向けると同じように時間の経過に少し驚いた顔をした彼と目が合った。
「なんか最近さ、やけに練習時間過ぎるの早くない?」
「な、チャイムなるまであっという間」
顔を見合わせて同じような感想を言い合いながら、手早く譜面を畳みピアノのカバーを戻す。
その間に椅子においていたカバンを瀬川が持ってきてくれる。
相変わらず一挙手一投足まで周りのことを考えてるなあと感心しながら、彼の手から荷物を受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
いつのまにか、あんなに苦手だった相手なのにずいぶんと自然に会話できるようになった。
それはやっぱり、瀬川の根本が私とは違って善人だからだろう。
あの作り笑顔が取り払われたことで、胡散臭さがなくなって。よりその行為そのもののすごさが分かるようになった気がする。
まるで体に染みついたように、当然のように、彼は人を気にかけ人が傷つかない言動をとる。
それは、たとえ意識的でも大抵の人にはできないことで。それができる瀬川が純粋にすごいと思った。
まだ、瀬川の素顔はわからない。
私の前で見せる笑顔を取り払った姿が本当の素かは実際疑わしい。
でも、最近はどっちでもいいか、と思う。
素でも、素じゃなくても。隣が居心地のいいものであることは変わりないから。
二人で音楽室を後にし、長い廊下を歩く。廊下の突き当りにある窓から差し込んだ夕日に、影が二本、長く伸びていた。
会話はない。けれどそれは無理に沈黙を埋めようとしていない結果で、気まずいものではない。
いつものように昇降口で靴を履き替え、部活へ行く瀬川と別れる。
「じゃあ、またね」
「あー...いや、今日は俺もこっち」
ちょっと気まずげな表情をして、瀬川は私が向かおうとしていた校門のほうを指さした。
「部活は?」
「今日は休み。日曜が大会だったからその振替で」
「あ、そうなんだ。大会ってあの、レギュラーで出ることになった?」
「そうそれ。あれ、俺そのこと言ってたっけ」
「ううん、直接は聞いてないよ。けどあの声量で広野くんが言ってたから耳に入って」
「あー、そういえばそうだったな...、」
呆れたような口調でそうつぶやく瀬川に、わたしは小さく笑いをこぼした。
何気ない会話を交わしながら校門をくぐったところで、ふと我に返る。
もしかして、このまま並んで駅まで向かうのだろうか、と。
放課後の中途半端な時間とはいえ、他にもぱらぱらと下校している生徒がいる。
自意識過剰なのは分かっていても、視線が気になる。
それは、瀬川のことが好きだからとかそういう次元の話ではなくて。
...瀬川の隣を歩けるような外見も、中身も。
私は持ち合わせていないから。
最初に合唱祭の会議に一緒に向かった日を思い出す。
あの日も一緒には行ったけれど、並んで歩けずに数歩後ろを歩いていた。
でも今は、瀬川がいるのはすぐ隣。
歩く速さを遅めて後ろに下がろうかと考え、思い止まる。
流石に今さら隣から逃げるのは不自然だし、彼にとっても不愉快だろう。
校門から駅までの坂道を下っていく。いつもと同じか帰り道なのに、駅までたどり着くのがあっという間な気がした。
さりげなく改札を譲られ、先に改札口を通り抜ける。
聞きなれた短い電子音が、今日はやけに機械的に聞こえた。
「じゃあ私、あっち方面だから」
改札口を通り抜けた瀬川を振り返り、今いるのとは反対側の人気のないホームを指さす。
この駅には県の中心部へ向かう電車と、それとは反対方面の、田舎側に向かって走る電車がある。
私が乗る電車は田舎側に向かって走る方で、放課後の中途半端な時間のせいもあって、生徒の姿はまばらだった。
私の言葉に、瀬川が一瞬目を見開く。
「どうしたの?」
「驚いたな、実は俺も同じ方向の電車なんだ」
彼はさっと表情を戻し、さらりと笑顔を浮かべた。
久々に自分に向けられた作り笑いに、瞬間、少し胸が痛む。
なんでだろう。
駅までの道はともかく、これだけ近くに人目があるんだから彼が表情を作るのは当たり前のことなのに。
「あ、そうなんだ。今まで全然気づかなかった」
ちくりと痛んだ胸を誤魔化すように言葉を返すけれど、返事がわざとらしくなっている気がして仕方がない。
会話が途切れて、どことなく気まずい空気が流れ始める。
『ーーまもなく2番ホームに電車がまいります。危ないですから、点字ブロックの内側でお待ちくださいーー』
「っいそご」
よかった、タイミングよくアナウンスが流れて。
沈黙が終わったことに安堵しながら、反対ホームに行くために連絡橋を駆け足で上り、手すりを掴みながら駆け降りていく。
ホームに止まった電車の一番近くにあった入り口から車内に二人滑り込んだ。
久しぶりに走ったから、少し息苦しい。
膝に手をつき、はあはあと息を整える私とは対照的に、瀬川は息を乱す様子もなく車内をぐるりと見回していた。
流石サッカー部のレギュラー、体力あるなぁ。
「大丈夫か?」
「…平気、瀬川は流石体力あるね」
上から瀬川の声が降ってきて、一度大きく深呼吸してから言葉を返す。
顔を上げれば、無表情に近いけどよく見れば少し眉の下がった彼がこちらを覗き込んでいる。
表情からは分かりにくいけど、心配してくれているのが分かった。
心地よい音を立ててゆっくりと電車が走り出す。
だんだんとホームも、そこに立つ生徒たちも遠ざかって、景色が住宅街へと移り変わる。
車内は空いていて、座席もいくつか空きがあった。
けれどどちらも座ろうとは言い出さなくて、ドアのすぐ横のシートの背側に立ったままもたれかかる。
「俺は橋田駅までだけど、そっちは?」
「私はもう一個先の波川駅。じゃあ結構近くに住んでるんだね」
「な、…最寄りが波川駅なら中学は北桑田とか?」
「そう、詳しいね。瀬川は?」
「俺は東山中。学区ギリギリでさ、自転車だったから通学きつかったな」
「うわ、体力つきそう…私なんか徒歩5分とかだったから楽だったけど」
「普通に羨ましいわ」
他愛のない雑談。途切れない会話。
瀬川と言葉を交わしながら、こんなのいつぶりだろう、と心の中で思う。
いつも一人ぼっちで、暗くて、教室では空気で。
家でも学校でも、息を殺して過ごしてきた。
なのに今は、話してくれる相手がいる。
自分の話を否定せずに聞いてくれる人がいる。
それがどうしようもなく嬉しい。
…けど、分かってもいるのだ。こんな穏やかな時間が、一時的なものだってことくらい。
瀬川がこうして話してくれるのは、私が伴奏者で、裏の顔を知ってしまってて、クラスで浮いてるから。
彼にとって、’優等生”として、仲良くすべき相手だから。
きっと、伴奏者と指揮者という肩書きが消えたらクラスメート以下の関係になる。
仕方ない、当然のこと。
そう思うのに、今はその事実がなぜか悲しかった。