ショパンの指先
 彼が表現しているのは、抗うことさえ諦めた孤独と絶望だ。

 私には分かる。この曲は彼自身を表している。
 
 私は革命のエチュードが終わるまでピアニストの顔を見られなかった。

顔を見るのが怖かったのだ。

彼の顔を見れば、彼の絶望に飲み込まれる。瞳を見た者を石にするメデューサのような危険な恐怖を、彼の音楽に感じた。

 曲が終わり、店内には割れんばかりの拍手が響き渡る。

 私はようやく、きついコルセットを脱いだように息を吐き出すことができて、亀井さんに合わせて慌てて拍手をした。

「どうだった?」

 亀井さんが聞く。

「凄いピアニストだわ」

 お世辞でもなんでもない、正直な気持ちだった。

 凄いピアニスト。

 技術はもちろん、感情表現がとても上手い。どんなに技術はあっても、心を揺さぶらせる演奏ができるピアニストは少ない。

 彼は間違いなく一流のピアニストだ。

「彼を見ていると、スタニスラフ・ブーニンがショパンコンクールで革命のエチュードを演奏した時のことを思い出すよ。あれは衝撃的だった」

 亀井さんは昔を懐かしむ口調で言った。

スタニスラフ・ブーニンのことは知っていた。しかし、あまりにも有名すぎて、あまのじゃくな私は敬遠して彼の演奏を聴いたことはなかった。

「生で聴いたの?」

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