ショパンの指先
俺は眉根を寄せて、ピアノの音色のする方向に顔を向けた。そこはガラス張りの楽器店だった。一階にピアノが数十台置かれ、二階には弦楽器が置かれている。試弾できるらしく、客がでたらめにピアノを弾いていた。
俺は吸い込まれるように楽器店に入っていった。久しぶりに間近で見る漆黒のピアノ。指の腹で冷たい側板を撫でるように触ると、胸の奥の眠っていた熱い塊がざわざわと騒ぎ始めた。
……弾きたい。
湧き上がってきた気持ちは、欲求ではなく、もはや衝動だった。突き動かされる抑えられない衝動。ショパンコンクールのオーディション予選日から、俺はピアノを弾けなくなった。手が震えて、指先に力を入れることができなくなったのだ。もう二度とピアノを弾くことはできないと思っていた。でも今なら……弾ける気がした。
ピアノの椅子に座り、白盤に指を乗せた。指先の震えはない。人差し指に力を入れて白盤を押すと、ポーンと高い音が響いた。五本指をゆっくりと確かめるように一本ずつ動かすと、それに応えるように音が鳴った。
よく調律されている、いいピアノだった。曲を弾きたくなった。
何を弾こう。俺はふと、天井を見上げた。何百もある記憶しているレパートリーの中から選んだ曲は『別れの曲』
あの日から俺の中で時間が止まっていた。再び時間を動かすとしたら、この曲から始めたい。母を俺の演奏で弔いたい。
練習曲 ホ長調作品10‐3 『別れの曲』
俺は失った三年間を取り戻すように、魂を込めて演奏した。目を閉じて、母を思い浮かべながら奏でる音色は、とても美しく儚げだった。
なあ、母さん、聴こえるか。俺、ピアノがないと駄目みたいだ。ピアノなんか大嫌いだと思った時期もあった。勝手に俺の将来を決めるなって恨んだこともあった。でも俺分かったよ。俺は、ピアノが好きだ。
俺は吸い込まれるように楽器店に入っていった。久しぶりに間近で見る漆黒のピアノ。指の腹で冷たい側板を撫でるように触ると、胸の奥の眠っていた熱い塊がざわざわと騒ぎ始めた。
……弾きたい。
湧き上がってきた気持ちは、欲求ではなく、もはや衝動だった。突き動かされる抑えられない衝動。ショパンコンクールのオーディション予選日から、俺はピアノを弾けなくなった。手が震えて、指先に力を入れることができなくなったのだ。もう二度とピアノを弾くことはできないと思っていた。でも今なら……弾ける気がした。
ピアノの椅子に座り、白盤に指を乗せた。指先の震えはない。人差し指に力を入れて白盤を押すと、ポーンと高い音が響いた。五本指をゆっくりと確かめるように一本ずつ動かすと、それに応えるように音が鳴った。
よく調律されている、いいピアノだった。曲を弾きたくなった。
何を弾こう。俺はふと、天井を見上げた。何百もある記憶しているレパートリーの中から選んだ曲は『別れの曲』
あの日から俺の中で時間が止まっていた。再び時間を動かすとしたら、この曲から始めたい。母を俺の演奏で弔いたい。
練習曲 ホ長調作品10‐3 『別れの曲』
俺は失った三年間を取り戻すように、魂を込めて演奏した。目を閉じて、母を思い浮かべながら奏でる音色は、とても美しく儚げだった。
なあ、母さん、聴こえるか。俺、ピアノがないと駄目みたいだ。ピアノなんか大嫌いだと思った時期もあった。勝手に俺の将来を決めるなって恨んだこともあった。でも俺分かったよ。俺は、ピアノが好きだ。