ショパンの指先
その後、俺は音大を辞め、寮付きの工場で働き出した。車の組み立てや塗装を行っている会社で、工場内は常に金属音や電動ドライバーの音で満たされていた。

 ピアノとは全く関係のない場所で、人とあまり関わらない仕事がしたかった。同じバイトの仲間や社員たちとも、なるべく話をしないように避け続けた。全てのことから逃げたかった。生きることが酷く、面倒に感じた。未来のことなんてどうでも良かった。失うものが何もない。だから、楽だった。楽だけど、楽しいことなど一つもなかった。

 三年間、そうやって生きているのか、死んでいるのか分からない状態で生活していた。女遊びも散々した。女には昔から困らなかったから。けれど、俺の心の隙間は誰にも埋められなかった。俺はなんで生きているのだろうといつも考えた。

なんで俺は死のうとしないのだろうと時々不思議になった。死ねば楽になるからと自殺者は考えるらしいが、今はとても楽な生活だからあえて死ぬ必要もないだろうと思った。楽なことが、これほどつまらないとは思わなかった。楽になるということに、魅力を感じないのだ。

 コンクールが近いから寝る暇も惜しんで練習することもない。誰も俺に期待していないから、プレッシャーを感じることもない。別に何も考えなくても、何もしなくても、一日は平凡に過ぎていく。

 生きていても何も楽しくなかった。充実感も幸福感も、辛いことも悲しいこともなかった。楽とは残酷なものだ。俺は生きながら、死んだのだった。

 三年間続いた寮付きの工場の仕事を、上司との折が合わず喧嘩して勢いで辞めてしまった。貯金もないし住む場所もない。ホームレスの仲間入りのような生活をしていて、何もすることがないから街をあてもなく歩いていた。

そんな時、街中からふいにピアノの音色が聴こえてきた。美しさの欠片も感じない不協和音だった。なにかメロディーを奏でているようだが、鍵盤を太鼓のように乱暴に叩いているようにしか聴こえない。

< 114 / 223 >

この作品をシェア

pagetop