ショパンの指先
ドアを開けると、そこには冷たい床が広がっているだけだった。

この部屋の主のように、でんと構えていたピアノも何もない。私は目の前の光景が意味することが理解できず、しばらくぼーっと佇んだ。そしてだんだんと鼓動が速くなっていき、不安が押し寄せてきた。

私は突然走り出した。寝室のドアを開け、お風呂やトイレも見に行って、収納棚やキッチン棚も開けた。そこには何もなくて、まるで桐谷洵という人物は最初から存在していなかったかのようだった。

私は腰が抜けて、床に座り込んだ。

どういうこと? 洵はどこに行ったの?

震えが止まらなかった。目の前の光景の意味を理解することができなかった。私とセックスすることを頑なに拒んでいた洵が、突然私を抱いた。私はただ、嬉しくて。洵と両想いになれたことが嬉しくて、深く考えもしなかった。洵が何を思って私を抱いたのか。そこにはどんな覚悟が秘められていたのか。私は何も知らずに幸福に酔いしれていた。

気付くと、涙が頬を伝っていた。私は涙を拭ってフラフラと立ち上がった。足にまだ力が入らない。けれど、まだ決まったわけではない。洵がいなくなったと決めつけるには早すぎる。

私は再び走り出した。今度はアマービレへ向かって。


アマービレに着くと、店内は暗くなっていて準備中の札が掲げられていた。私は構わず店内に入る。

するとそこにはカウンター席に深刻そうな顔をして肩を並べ座っている優馬と遠子さんの姿があった。カウンターの上には「退職願」と書かれた一枚の白い封筒が二人の間に置かれていた。

流れるような達筆な字。その字に見覚えがあって、胸が圧迫されたように苦しくなった。

「あんた……」

 優馬が私の存在に気付いて顔を上げた。その視線を手繰るように遠子さんも顔を上げ後ろを振り向く。目が赤く充血している。遠子さんは私の顔を見ると、途端に険しい表情になった。
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